コロナ禍によって最も身近になった存在といえば、ウイルスである。ウイルスという目に見えない存在を知覚する想像力が(不安や恐れ、警戒心とともに)否応なく人類全体に身についたのは、実は画期的なことでもあったのかもしれない。だが、その想像力は以前に比べて消えつつあるようだ。それが「日常に戻る」ということなのかもしれないが、現実を直視していないようにも思える。
そもそも人類はコロナ禍以前から、日常的にウイルスと隣り合わせで暮らしてきた。それどころか、人間は体内にウイルス由来の遺伝子配列さえ有している……そんな事実を教えてくれるのが本書である。著者は免疫学の専門家である医学博士の宮坂昌之と、感染症・ウイルス研究に従事する歯学博士の定岡知彦。
本書では、まずウイルスとは何かを理解するところから始まり、その感染と発症の仕組み、多様かつ厄介なウイルスの性質、そしてヒトとウイルスの切っても切れない関係性などが語られていく。数多くの専門用語は出てくるが、あくまで一般読者向けに書かれたものなので読みやすく、理解しやすい。その内容には専門家ならではの信憑性がある(と同時に、我々シロウトが見誤りがちな「専門家か、そうでないか」の判断についても辛辣な意見が述べられている)。
病原性の低下によって、「もはや新型コロナはただの風邪。恐るるに足らず」と考える人も多い。しかし、感染者数と死亡者数の推移を見ると、まったくもって楽観的な状況ではないことがわかる。変異株の出現とともにウイルスの感染性が以前よりも増し、さらにワクチンの効果が下がってきたこともあり、日本では新たな感染の波が現れるたびに一日あたりの感染者数が増え、死亡者数も増加の一途をたどってきた。
こうした記述を目に入れたくない人もいるだろう。コロナ禍初期の絶望感や不安を再び感じたくないという気持ちもわかる。だが、ウイルスについての最新知識や、冷静な状況分析などの情報には、常に接しておくのが望ましい。本書では新型コロナウイルスについて、「持続感染」という不気味な性質から、他のウイルスとは異なる特質、さらにmRNAワクチンの開発経緯、ワクチンが体内で効果を発揮する仕組みに至るまで詳しく語られる。コロナ禍が「落ち着いてきている」という根拠の怪しいイメージが広まってきている今こそ、改めて読んでおきたい内容だ。
また、コロナウイルスだけでなく、地球上には危険なウイルスが数多く存在する。帯状疱疹ウイルス、B型・C型肝炎ウイルス、SARSウイルス、HIV(エイズ)ウイルス、麻しん(はしか)ウイルス等々……その特性、感染経路、症状の違いを知ることは、正しい予防や治療にもつながり、ウイルスの多様性を知ることにもなる。読み進めるほどに、帯にもあるとおり「生命科学最大のフロンティア」を眺めている気分になってくる。
頻繁に変異を繰り返すRNAウイルスでは、宿主動物の免疫機構から捕捉されにくくなる「免疫回避」という現象が起きる。これは新型コロナウイルスのオミクロン変異株で何度も観察されてきたことである。同じオミクロン株の中にいくつもの異なる変異株ができ、変異が積み重なるたびに免疫回避性が高まっていく。まるで指名手配犯が次々に変装することによって警察の網にひっかからないようにするかのようだ。
「免疫回避」「長期潜伏」「ステルス能力」といったウイルスの厄介な性質には、おののきつつも、同時に生命の神秘すら感じてしまう。なお、本書では「ウイルスは生物とはいえない」という説はとっていない。研究者の間でも意見が分かれる議題だが、確かにその生命力、感染力、免疫システムをかいくぐる狡猾さを知れば知るほど、無生物とは思えなくなってくる。
一方、人類にはもともと優れた免疫システムが備わっており、その仕組みにもやはり生命の驚異を感じずにいられない。「ヒトが持つ免疫機構は極めて複雑かつ精緻であり、わずか1章では概要すら説明できない」とまで書かれるほどだが、下図のような可愛らしいイラストや、初心者にもわかりやすい解説によって、その機能を理解し、感嘆することは可能である。
実際にコロナウイルスに感染・発症した経験のある人ならわかると思うが、インフルエンザや風邪に罹ったときとは全然違う感覚に襲われなかっただろうか。高熱や喉の痛みなど、もちろん症状に個人差はあると思うが、身をもって「これは風邪じゃない」と思った体験は、いま思い出してもゾッとするほど忘れがたい。逆にいえば、自分の体がウイルスの種類をちゃんと識別して反応したということでもある。人間の体内センサーの鋭敏さには改めて驚かされる。
人類はこの百数十年の間に、細菌やウイルスを発見し、さらにワクチンや抗生物質といった対抗策まで見つけた。それまでは目に見えないミクロの領域で、巧みな潜入工作や内部攻撃を仕掛けてきた敵の正体を、幸いにも我々は見破ってしまった。ヒトの進化もなかなか侮れない。だが、その発見はウイルスとの果てしない戦いの始まりを告げるものであり、いまも戦いは続いている。あっという間に世界中に広まり、変異を繰り返して特効薬開発を遅らせている新型コロナウイルスを見ればわかるように、ウイルスに対して人類が完全に勝利することは(少なくともしばらくは)ありえないだろう。だが、本書で語られるのは決して悲観論ではない。正しい知識を得ることで見える希望を指し示してもいる。
われわれは、ウイルスと闘いながらも、あるときは共存、共生し、その中で生き抜いて進化してきたという事実を忘れてはならない。そのように考えると、今後大事なのは、ウイルスに対していかに対処し、いかに共存するかだ。そのためには、われわれはウイルスというものを「正しく知る」必要がある。
進化の過程でヒトのDNAに刻まれたと思しきウイルス由来の刻印は、その付き合いの長さと、身近さを教えてくれる。未来の種には新たな「ウイルスの置き土産」が残るかもしれない。
レビュアー
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。