刺激的な一冊である。かの有名なゴシック・ホラー小説の金字塔『ドラキュラ』を題材に、作品の持つ時代的・文化的背景、当時における生々しい恐怖の正体に迫った骨太の研究書だ。かつて『ドラキュラの世紀末――ヴィクトリア朝外国恐怖症〈ゼノフォービア〉の文化研究』のタイトルで1997年に出版されたが、今回新たに1章を加えた増補改訂版として復活。2023年現在に読んでも、なんらインパクトを失っていない。
ブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』が発表されたのは、1897年。その後の度重(たびかさ)なる映像化、膨大な翻案作品で広く世に知られ、ベラ・ルゴシやクリストファー・リーが映画で演じた黒マントの貴族的イメージは、いまや不滅のホラーアイコンとして定着している。それらの派生作品のほうが有名になりすぎて、もはや原作の正確な描写を思い出せる人のほうが少ないかもしれない。だが、ストーカーの小説を注意深く見れば、そこには原典だけにしかない独自性、同時代性に満ちているのではないか。本書は「文学研究であり、文化研究でもある」という姿勢をもって、『ドラキュラ』という作品の命たる「恐怖」の本質をさまざまな角度から掘り下げていく。
『ドラキュラ』が描かれた時代――19世紀末のヴィクトリア朝イギリスに充満していた空気、ストーカーが作品に盛り込んだものとはなんだったのか。それこそが“外国恐怖症〈ゼノフォービア〉”である、と著者は主張する。世界各地で植民地政策を推し進め、その勢力を拡大していく大英帝国が、その反面抱えていた不安とおそれ。その正体を解き明かしていく筆致はスリリングな興趣にも溢れつつ、時にビリビリと肌を刺すような「容赦のなさ」をもって残酷な現実を浮き彫りにしていく。
なぜドラキュラは故国トランシルヴァニアから、はるばる英国ロンドンへと侵略を開始したのか? なぜ彼のロンドンにおける居住地は「ある三つの特徴的な地域」に絞られたのか? なぜ宿敵ヴァン・ヘルシングはオランダ人でなければならなかったのか? なぜドラキュラの脅威に立ち向かう男たちのうち、二人は医師なのか? そのうちの一人、クインシー・モリスはなぜ米国テキサス出身で、なぜ彼だけが命を落とすのか? ――そういった「なぜ」の提起から手繰り寄せられる分析はいずれも興味深い。当時の国際情勢、医学やテクノロジーの発展、ブラム・ストーカー自身のアイデンティティなどが意外なくらい密接に関わっており、やがて『ドラキュラ』という小説自体に対するイメージも徐々に変わってくる。
たとえば、ドラキュラの従僕である狂人レンフィールドの一見支離滅裂なセリフにも、実は英米の緊張関係を匂わせる不穏なメッセージが隠されているという分析には驚かされる。そして、ヘルシングらの仲間としてドラキュラに立ち向かう米国人モリスの勇敢さ、健闘むなしく訪れる死が意味するものへの考察も面白い。
「アメリカ人モリスは死ななければならない」。なぜならモリスは「吸血鬼」のように「拡大」する帝国、いつかイギリスを追い抜く「世界の強国」となりイギリスを脅かすアメリカの市民にほかならないからです。そして「英国は無意識のうちにではあるが、それを恐れていた」のです。たしかにクインシー・モリスの死には、イギリスを追い越しながら「拡大」していく帝国としてのアメリカにたいする無意識の恐怖が織り込まれているのです。
小説『ドラキュラ』は想像以上にリアルタイムの世相や文化、先端技術や科学的知識が盛り込まれた作品だった。それはドラキュラの毒牙にかかった二人の女性がたどる運命にも反映されている。
ルーシーの場合、病因がはっきりと確定されないままに、彼女は死に、細菌が勝利します。しかしミーナの場合、細菌がつくり出す「死毒」が彼女の肉体を破壊するまえに、医師たちは、細菌が「力強くその毒性を更新」する「汚染された土」を「殺菌/消毒」することで敵に攻撃を加え、そして最後に彼を殺害します。こうしてミーナは健康をとりもどし、『ドラキュラ』という物語は医学の勝利を言祝(ことほ)ぐのです。
パスツールによる細菌の発見、コッホによる感染症の病原菌発見なども『ドラキュラ』刊行時にはホットなニュースだった。ちなみに、ランドシュタイナーによる血液型の発見で安全な輸血ができるようになるのは、刊行の数年後なので、劇中で何度も繰り返される輸血描写はかなり危なっかしいそうだ。
危なっかしいといえば、本書中盤のブロック「反ユダヤ主義の世紀末」以降に展開される考察は、かなり強烈な内容だ。19世紀末はユダヤ人にとって、あまりにも苛酷な受難の時代の始まりだった。ロシア・東欧での大規模なユダヤ人迫害から逃れるため、多くの難民が西欧諸国や北米へと流入。その受け入れ先のひとつとなったイギリスでも、やがて新たな不安と排他的思想が芽生える――あからさまな人種差別主義の台頭、移民問題の有効な解決策として挙がる「同化政策」の出現など、極端な言動がはびこっていた当時の状況を本書は容赦なく調べ上げる。のちのヒトラー登場やホロコーストを予感させるような差別的言説の数々、それらを引用しつつ平静さを貫く時代状況の分析は、読むほうも覚悟して向き合ったほうがいい(つまり主題から逃げていないということでもある)。それは現在のヨーロッパにおける難民問題とも非常によく似ている。
ストーカーは、彼の主人公たる吸血鬼の居住地を、ユダヤ人移民の連想がともなうイースト・エンドをはじめとするロンドンの貧しく不潔な地区に定めることによって、彼の主人公のうえに、貧窮ユダヤ人移民のイメージを暗示的に投射しようとしていたのではないでしょうか。そうすることによって、『ドラキュラ』の恐怖の源泉を、同時代の「ユダヤ人恐怖(Judaeophobia)」(Adler 1881)のなかに求めようとしていたのではないでしょうか。
ストーカーは反ユダヤ主義者だったのか?という、かなり際どい問いかけに本書はなだれ込んでいく。なぜ彼は『ドラキュラ』の“最も忌むべき、恐るべき存在”にユダヤ人の表象を持ち込んだのか? その検証は極めてサスペンスフルで、説得力がある。
また、ドラキュラが選んだ居住地のうち、貧民街にあたる地区は、当時多くの死者を出したコレラの感染拡大地域でもあった。ドラキュラが“東方”のトランシルヴァニアから、疫病の蔓延(まんえん)と似たルートでロンドンにやってくるのも偶然ではない、と本書は説く。
要するに「コレラ恐怖」とは、「恐ろしい病気と外来起源を執拗に結びつけ」ようとするヨーロッパの(あるいはイギリスの)外国恐怖症の一形態にほかならないのです。「特権的な文化の場」として「本来病気からは自由である」はずのヨーロッパが、「アジアから来た訪問者」によって、より具体的に言うならば、インドのベンガル地方から拡大してきたアジア・コレラによって侵略される――このような「コレラ恐怖」の構図は、一九世紀末イギリスが抱えていた外国恐怖症の、じつはもうひとつの典型的形態を示しているのです。
国が強大に、大きくなればなるほど、外からの侵入/侵略におびえる――大国には大国ならではのパラノイアックな恐怖が存在し、それが同時代の小説『ドラキュラ』にも染み渡っているのではないか。その分析は、現在の世界情勢を思い浮かべても、うなずくところが多い。
今回、新章として加えられた「もうひとつの外国恐怖症――エミール・ゾラの〈猥褻〉小説と検閲」もまた非常に興味深く、読み応えのある内容である。フランスから輸入・翻訳されたエミール・ゾラの小説『大地』が猥褻物として槍玉に挙げられた事件を軸に、19世紀後半における「女性の性的覚醒」が『ドラキュラ』に与えた(どちらかというと保守寄りの)影響について語られる。
一八四七年生まれのストーカーを典型として、世紀末の人びとは、女性とは性欲をもたない「天使」「尼僧」であるという女性観のもとで人格形成期を過ごし、一八七〇年代以降、女性のなかに伏在する官能的な「性的感情」「性的欲望」を、衝撃とともに認識させられることになる。「可憐な美しさは狷介で冷酷な残忍さへと変わり、無垢な清純さは官能的な奔放さへと変わってしまっていた」(第一六章)というルーシーの変身には、彼らがうけた、女性の官能性の発見にともなう衝撃の大きさが映しだされているのではないか。
これも現代のフェミニズム運動に繋がるテーマでもあり、『ドラキュラの世紀末』をすでに持っている人にも再読お勧めしたい。このように、名作として評価の確定した作品にも、まだまだ掘り下げられていないディテールや、語られていない本質があるのではないか。そんなことを思わせてくれる、一級の研究書である。
レビュアー
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。