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【いとうせいこう×崔実 特別対談】『pray human』はなぜ魂を揺さぶるのか

2020.09.18
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いとうせいこう × 崔実 特別対談

声をあげる勇気 無意識と共振するエモーション

「口をつぐんでしまうような出来事に向き合うことを選ぶ」。朝鮮学校に通う少女ジニの「革命」を描き、トリプル受賞を果たしたデビュー作『ジニのパズル』から4年。待望の新作『pray human』を刊行する崔実が、作家いとうせいこうと語る、創作の秘密と社会へのまなざし。

悩みながら言葉を探して

いとう 『pray human』面白く拝読しました。むちゃくちゃエモかったです。デビュー作『ジニのパズル』以来の作品ですが、改めて読み返してみると、この二作品の文体はずいぶん違うふうに見えます。僕は構造とか言葉とかに目が行きがちなんですけど、『ジニのパズル』が通りのいい文章だったとすれば、『pray human』はゴツゴツとした感じになっている。だから、『ジニのパズル』とは読み応えの違う小説を書きたかったのかなと感じました。何か意図があったのでしょうか。

 意図したものではなかったです。とはいえ、同じ気持ちで書いたものではなく、『ジニのパズル』に比べ『pray human』を書くときのほうが、自分自身の心の奥というのか、ちょっと暗いところに行ったのかなとは思います。それがゴツゴツした感じに受け取られたのかもしれません。

いとう この二つの作品は同一人物が書いたとは思えないくらい全く違う単語がたくさん出てきますよね。難しい言葉というか、たとえば「示教を仰ぐ」とか「幾年幾日と同じように」とか、僕も書いたことがないような今どきあまり書かれない難しい言葉です。どこから来ている言葉なんだろうと不思議に思う。

 言葉という意味では、『ジニのパズル』のときは一回も辞書を引かずに書きました。想いが先走っていたからか、何も考えないうちに書き終わっていて、自分でも内容を覚えていないほどでした。反対に『pray human』のときは、すごく悩みながら書いていて、言葉が一切見つけられなくて、ものすごく時間がかかったんです。表現したい感情を言葉にしたくても、その言葉がなかなか思いつかなくて。だから、私の知らない言葉があるんだろうと思って、辞書を引いて、この気持ちや感覚にあう言葉を探さなきゃという感じでした。

いとう すごいね。それってどうやって探すの? 例えば「示教を仰ぐ」でいえば「教えを仰ぐ」ということだから、「教え」から引いていったということ?

 全く記憶にないです。何だったんだろうな(笑)。

いとう 自分の中にない言葉を書くほうが、作家としては絶対面白いと思う。だって、知っている言葉だけで書いたら、みんなが思った通りの最大公約数的なところにおさまりますよね。全員に伝わる言葉というよりは、自分の感覚に一番近い──と言っても、そこにもすでに齟齬があると思うけど──言葉を探っていったということなのかな。辞書を引きながら書くのって大変だよね。

 はい、大変でした。言葉を探すことで、一回一回思考がとまっちゃうんです。辞書を引くとき、時には日本語からではなく英語で最初に引いて、日本語訳を見つけてからさらに気持ちにピッタリあう言葉を探していきました。だから、一日にちょっとずつしか進まなかったです。

いとう そうだよね。例えば大江健三郎さんがフランス語などを参照しながら日本語の文を変えていこうとしたとすれば、それが意思かどうかは関係なく、これまでにない日本語の並びになる。何かちょっと変じゃない? みたいな文章の手触りがでる。でも、それがいいんですよね。だって、読者はそこにひっかかりを覚えるわけだから、サラサラ読み飛ばせない。『pray human』はそこがすごく気になって面白かったんです。

 ありがとうございます。『ジニのパズル』のときは何も考えていなかったこともあって、例えば、なぜ書いているのかとか、新人賞に応募するのかとか、目的がはっきりしていないのに、なぜか読者が見えていたんです。常に意識の中にあった。元々、『pray human』は、友人に言われた些細な言葉が胸に引っ掛かったところから始まり、その友人に物語を通して、私の気持ちを答えようと思ったのが初期衝動だったんですが、私は物忘れが激しいので、その当初のわりとシンプルで明確だった思いをつい忘れてしまい、いつの間にか物語の中に自分が溺れていってしまいました。

過去のトラウマと向き合う

いとう 『pray human』はどのくらいの期間かかっているんですか。

 『ジニのパズル』が二〇一六年に刊行されて、その翌年の二〇一七年の三月ぐらいから書き始めました。ただ、その執筆期間中に成人スチル病という難病にかかってしまい、入院することになったんです。それから一年ほど過ぎてから回復し始めてようやく再開しようと思ったけれど、精神的にまいってしまったこともあってまたストップしちゃったんです。書き進めるたびに何か違うと思ってやめる、の繰り返しでした。だからものすごく長い時間です。

いとう 『pray human』は過去に入院していた精神病棟での日々を現在から語る物語になっています。テーマというか内容としても重いものを抱えているから、時間もそうだけれど、精神的にも大変だったと思います。小説を一つの相手として見た場合、それは自分自身に置き換えてもいいけれど、よくその相手一人とずっと格闘していられたよね。嫌になって別の作品を書くとか、もちろん何も書かないという選択肢もあるけど、それは最後まで捨てられなかったものがあるということなのかな。本当によく終えられたなって。

 いや、もうやめようと何度も思いました。近くにいた人には、もう二度と書かない。私は小説家に向いていないからやめると宣言したこともあります。でも、その当時ちょうどMeTooムーブメントが始まって、自分でも考えるところがあったから、どうしても頭から離れなかった。MeTooムーブメントのニュースを見るたび、ふと『pray human』が頭に浮かぶんです。

自分の中で向き合って来なかった問題が多過ぎて、世界中の女性や男性たちがリスクを背負って発言している中で、自分は何もできず、傍観者になってしまっている。彼らのように声に出す勇気がないなんて情けない。そういうふうに考えてしまい、ベッドから起き上がるのも精一杯で、苦しい時期を過ごしました。MeTooムーブメントの流れの中、それでも声を上げられなかった人たちは、自分を責めたり、逆に傷ついたりしていた。私もそうなっていました。もう二度と書かないと言いつつ、私は声にできない人たちにも声を当てなくてはと危機感を覚えました。しかし、それには、やはり自分の過去のトラウマと真っ向から向き合わなければなりませんでした。

いとう その向き合わなきゃという気持ちが強くリアリティを持って迫ってくるのは、小説の中で何度も迂回しているからだと思う。その道に迷いなく進んでいって、女性がどういう辛い目に遭っているのかをストレートにタッチするよりも、それができないから、迂回しながらおずおずと進んでいく。それがむしろ僕はすごくリアルだと思ったし、この小説の複雑さにつながっていると思った。

例えば、小説では「わたし」が「君」に語りかけている設定だけれど、現在の「わたし」が見舞いに通う「安城さん」にも話しているし、「由香」という昔の友達との対話にもなっている。この小説はいろんな人に対して語りかけているんだよね。

普通、こういう構造で書こうとすると、「君」といったら「君」にだけ話すことになりがちだけれど、本来「君」にする話を分散している。それは、本当は話せないこと、その逡巡を、相手を変えていくことで周辺から中心に向かっているってことだと思う。それが構造として面白い。人間が告白するときって、本当はこういうことが起きているんですよね。

 うわあ! 言われて初めて気付きました(笑)。

そう言われると、ふだんの生活の中で、この友達にはこの話題が適しているけれど、この幸せな気持ちは、まずはあの子とシェアしたい、一緒に喜んでくれるだろうとか、私は無意識に人を決めて、自然に行動している気がします。みんなもそうだろうと私は思っていたので、それがそのまま『pray human』という小説の中にあらわれたのかもしれません。

小説の複雑さから生まれるリアリティ

いとう 『pray human』の面白みは、ストレートな物語構造になっていないところです。無意識にこういった構造ができあがったということでしょうか。最初はひとつの舞台として精神病棟の話を書いているけれど、枠を広げようとするときに外部があることに気づく。その外部は、「わたし」が見舞うことになる「安城さん」だけれど、彼女とは前の舞台である精神病棟で知り合っている。そうなると、その病棟に入院する理由は何だったのか、その原因となるさらに違う舞台が出てきてまた枠が広がっていくんですね。その物語の構造が、それも二重でなく、三重、四重とマトリョーシカみたいになっている。

 確かにそうですね。書いているときは考えなかったから……。

いとう 考え過ぎると面白くなくなっちゃうから、書き手は考えないでいいんです。

 たぶん最初は純粋に「君」に話そうとしたんだと思います。だけど、書き進めていくうちに、「君」に伝えたかったのに過去の「わたし」が言えなかったことがあることに気づいた。その過去に言えなかったことをいま安城さんに話すことで、間接的に「君」にも知ってもらいたかったんです。

いとう 患者が精神科医に話すとき、自分のことではなく、知人の話として話す場合があると思うんです。こんな話を聞いたことがあると言ってみたり、こんな夢を見たと言ってみたりすることで現実とずらしているんだけど、本当は外部や他者に知ってもらいたい気持ちがすごくある。怖くて話しづらい話題を、聞き手と語り手をずらすことでうまく言えるようにしている。

 だから、読みにくいだろうなとか、疲れちゃうだろうなとかすごく考えちゃいました。私としては書いている、ただ進んでいるだけだったんですけど。

いとう 大丈夫、読者は疲れないし飽きないと思う。ただ、自分は今どこにいるんだろうと迷って立ち止まるかもしれない。だけど、書いている人も一緒に迷っていることがわかるので心強いんじゃないかな。

 実際、私もすごく迷いながら、ここ、どこだっけというふうになって、また戻りながら、あ、そうか、ここにいたのかと確認しながらでした。

いとう だからこそ、切実さが伝わるんだと思います。本来なら口をつぐんでしまうような出来事に向き合うことを選ぶのが作家というものなのかなと感じました。僕は、ある程度の社会性も持っていないと作家じゃないと考えているんですが、そうでない人にしてみれば、自分の感覚を書けばいいと単純に思っている人も多くいるように思う。でも、崔実さんは違う。そのどちらでもなく、さらに崇高な存在として作家を捉えているんですね。

みんなが無視することに目を背けない

 『pray human』の中で、安城さんが作家をどのような人間と見ているかを「わたし」が代わって言うセリフがあります。「作家ってのは狂人、社会不適合者、負け犬、珍獣、ジャンキー、無法者、へそ曲がり、浮気者、皮肉屋、貧乏人、身勝手で意地の悪い反社会主義者のようなものと安城さんは考えていると思ってた」と。それは全部、私が実際に思っていることでもあるんです。でも、それだけではなく、みんなが自分の身を守って無視するようなことにも、目を背けず自殺行為的に飛び込むような人でもあるだろうと。だから、もしかしたら反対に、私は作家をすごく尊敬しているのかもしれない。

いとう むちゃくちゃ尊敬しているっぽいですよ(笑)。ほとんどの作家が、「やばい、俺、こんなに偉くない」と思うかもしれない。でも、世界的なレベルで言えば、詩人や作家が社会の中ではそう見られている。セリフにも「妙に信頼されるし、無闇に尊敬される種族でもある」とあるけれど、日本ではなかなかそう見られないですよね。僕は問題だと思っているけれど、崔実さんは、真っ正面から実感として描いていますよね。作家というのは自分のことだものね。そんなことはない?

 そこまでは思えていないかもしれません。まだ自分はどこかで、ほんとうに作家になれるのかな、向いていないんじゃないかなと思っているくらいです。

いとう それは作家に対する認定基準がめちゃくちゃ高いからです。でも、そう考えることは、僕はすごくいいことだと思う。自分が経験したことをわかりやすい言葉で書けばいいんでしょう、と高を括っている作家より、全然いい。むしろ、それだけでは作家じゃないと僕も思うから。だって、わかりやすく書くだけでいいならAIでいいじゃないですか。AIはたぶんトラウマもないでしょう。書けないことも書けなくなることもないだろうと思う。そうでないからこそ、より切実な問題にもなるし、とにかくラストシーンまでたどり着こうという気持ちが、奇跡的なランを生み出すんです。その迫力をすごく感じました。

 正直に言うと、書き上がるまで、この小説を書くのはいまじゃないと自分でははっきり思っていたんです。自分でも全く理解していないし、絶対に時期尚早だったと。でも、反対に心の中では、自分の期待とか理想みたいなものをすごく信じながら書いていたんです。この小説を書き終えたころにはトラウマは克服しているし、すごく強い人間になっているし、何もかも全てが報われるから進めて大丈夫、と。それだけを信じて書いてきたんだけれど、最後にたどりつく頃には、毎晩いろんな悪夢を見るし、まともに寝られないし、書き始めたときより精神的にひどい状態だった。こんなはずじゃなかったのにという気持ちと、敗北感がものすごくて、「そうか、私は負けたんだ」とずっと思っていました。だから最初、「群像」に掲載されたときはすごく傷ついてしまって、家に「群像」が届いたとき、部屋に「群像」があると思うだけで気持ちが落ち込んじゃって、そのまま捨てちゃったんです。

でも、時間がたってようやく、何でダメだったのか、何で負けたのかと冷静に客観視できるようになった。単行本にするために書き直す時間があって、時間がたつ中で、今はだんだん自分の中でいろんなものが見えるようになってきたと思います。『pray human』は自分にとって一体何なのか、今は自分の考えに納得しています。『pray human』は私にとってちゃんと意味があったという気持ちになれました。

いとう 書き終えることも大事なモーメントだけど、不思議なもので、単行本になって世に出ると、作品は他人になっちゃいますよね。作家と作家志望の違いは唯一、取り返しがつかない状態で人のもとに作品が届くという経験をしたことだと僕は思っています。読者となったその他人の中には自分も入っている。他人のところに届くというのは、自分が他人になっちゃうことでもあるんです。そうすると、不思議と距離感が変わってくるんですよね。

だから、本当に変わるのはここからじゃないですか。書店に並んでしまって、「あーあ」と思うときにこそ、本当の気持ちが決まってくるんだと思います。

 なるほど、確かにそうですね。書店に並ぶこと、忘れてました(笑)。

誰のなかにもいる弱者が共振する

いとう 『pray human』にはジェンダーの問題、性差別の問題が描かれています。例えば、精神病棟で知りあった「君」に「わたし」は「ねえ、君は性同一性障害なんて病名を本気で信じてるの?」と語りかけ、また、コンビニエンス・ストアの雑誌売り場にある、成人向け雑誌のコーナーを滅茶苦茶にしたり、小さな女の子も乗る電車の中に、「美乳女優の夜事情」や「グラビアアイドルが語るあそこのGスポット」と書かれる中吊りを「あの、汚い広告」と嫌悪感を表したりする。そのほか性的虐待にあった過去も明らかにされていきます。

 せいこうさんと星野概念さんの対談本『ラブという薬』を読んだんですけど、その中でせいこうさんが「前に電車に乗るのが辛いって言ったけどさ、中吊りとかキオスクで売ってる新聞や雑誌を見るのも辛い。もうひどいことが平気で書いてあるわけだよ。人種差別や性差別、暴力への肯定などなど。当然それは子どもたちも見る可能性があるわけで、人に対する憎悪とかちゃかしを日常的に見て育つってことが、一体どういう結果を生むんだろうかと思うと本当に落ち込む」とおっしゃっていて、すごくビックリしました。私も子供の頃から気に病んでいたことで、でも声に出したことはなかったから、まさか他にも車内広告に嫌悪感を示す人がいたなんて。語弊があるかもしれないですが、とても嬉しかったんです。

いとう ああいう広告の類いを目にすると、僕だって落ち込んじゃうんですよね。ほんとうはみんな感じているんじゃないかな。これほどあからさまに差別的な言葉が氾濫している国は珍しいと思うから、いつもどうにかして欲しいと願ってしまう。『pray human』は差別というテーマが重層的に出てくるから、切実さが半端ないんです。さっき崔実さんがMeTooムーブメントの話をされたけれど、こういった問題に声を上げるのは本当に難しいと思います。

 そうですね。この小説を書いている最中のことですけど、電車に乗っていたらフラッときて倒れると思ったときがあって、反射的につり革を摑もうとしたんですけど、実際は小説と同じように中吊り広告を握ってしまったらしくバタンとそのまま倒れたんです。広告が半分だらりとぶら下がっていました。明らかにつり革とは場所が違うのに、無意識に広告を破っていました。せいこうさんも『ラブという薬』で、「いつものように『117』に電話したつもりが、間違って『119』にかけちゃった」「俺が無意識的に救急車を呼ぼうとしていた可能性があるって指摘されたわけだよね」って。この無意識ってほんとうにあるんだって思ったんです。

いとう そのときは確かに精神的に追い込まれていたから。そういう無意識も一緒に書けるのが小説というものですよね。下手したら鉛筆一本とそのへんの紙でできるんだもん、最高だよね。

 どれだけ貧乏でも大丈夫です(笑)。

いとう そういった無意識を含めて切実な思いが詰まった小説だとほんとうに思う。立場の弱い人間の痛みというか、より弱いジェンダーの人たちは大変だと思うけれど、一応男性でもそれがないことはないんです。もちろん非対称かもしれないけど。やっぱり自分の中にも確実に弱者はいるので、そこが共振するんですね。僕が最初にエモいと感じたのも、心に傷を抱えた少女たちのやることがすごく面白いんです。「わたし」が唯一の友達とも言える「由香」と遊ぶシーン、例えばお互いの体をキャンバスにして絵を描き合うとか、「この街には愛が足りないんだよ」と愛を振りまくために自転車で街をぶっ飛ばすとか、こうした行為自体にすごく鮮烈な、内にこもった感情を外側に出したい、出したいけれどもピッタリな言葉が見つからないというもどかしさは、自分にも確実にあることで、ジェンダーを越えて感じることがたくさんある。由香とのシーンはどれも、作家は心に重いものを抱えているけれども、ここだけは楽しんでいいんだと自分に許す束の間の喜びみたいなものを読者として感じるわけです。この時間がずっと続くわけではないけれど、今、この瞬間は解放されているんだと思うと、自分がエモくなっちゃう。作家が本当に喜ばしく書いている作品は、人の心を打つもんなんです。僕は男だけれど、女の人はきついだろうなと思う部分はもちろんあるし、自分もこういうことに加担しているんだよな、と申し訳なく思うところがある。読む人によってエモさの角度はみんな違うだろうし、それが小説のいいところというか、小説に限らず表現のいいところだと思います。

だから最初に言ったように、通りのいい文章だったら、こんなふうにエモくはなかったかもしれない。ゴツゴツした書き方にも既にヒロインの逡巡がそのまま出ているんですね。だから、終わったことに対するカタルシスがある。これでよく走り終えたなと。奇跡的な作品だと思います。

でも、作家は本当に欲が深いから、もう次の小説のことを考えたりしてる?

 してないです(笑)。でも、常に書かなきゃいけないと思っているものはあるんですけど……。

いとう 前からあるの?

 二十歳のときからあるんです。でも……。

いとう もしかして、また今じゃないとか思っているのかな?

 まだ自分でも見えてないんです。自分がわかってないんです。登場人物の名前とかは全部決まっていて、最初と終わりも決まっているんだけど……その中ですごく大事なアイテムが出てくるんです。スプーンなんですけど、それが一体この物語にとって何を象徴していて、どういう意味があって、なぜこの場面にこのスプーンがこんなにも大事なものなのか、なぜ主人公だけじゃなく、周りの人たちに対してもポジティブな意味を持つのかがわからない。すごく重要なスプーンなので、そのスプーンが何を意味するのか自分がわからないと書けないんです。

いとう でも『pray human』だって、わかっていて書いたわけじゃないでしょう。たぶんそれと同じことなんじゃないですか。書かないとわからないんじゃないのかな。このスプーンみたいな存在、つまり物語を駆動する力になるものって言うのかな、それをヒッチコックはマクガフィンと呼んでいるんです。「岡村靖幸さらにライムスター」の曲名にもなってるんだけど。ヒッチコックにとっても、何でここではこの飛行機が必要だと思うのかは、最後までわからない。でも、それがなければ映画がつくれないと思うことが大事で、そのビジョンを貫くことが、シンプルでタフなものを生むんだと思う。だから、そのスプーンは書いて掘られるのを待っているはず。そうでなかったら面白くない。全部決まっているものを書くって、そんなこと書いていて興奮する? それ、絶対面白くないよね。

 すごい! 目からうろこです。

いとう でしょ。

心が硬直しないように生きる

 『ラブという薬』の中でせいこうさんが星野さんと一緒に繰り返しおっしゃっているのが、「みんなもっと気楽に精神科に行こう!」ってことで、私も大賛成なんです。気楽に話して、いい患者になる必要もなし。本当にそうだよなとすごく思いました。私はアメリカで五年ほど暮らしたんですが、その五年間から大きな影響を受けました。アメリカでは精神科に通っていることは隠すようなことではなくて、例えば、自分の子どもが三日間、悪夢を見続けたら連れていっちゃうくらいです。

いとう そうなんですよね。

 私が精神科に通っていることを友達は知っているので、中でも日本の友達の何人かは、人に言いづらいことがあると電話をかけてくれるんです。精神科ってどうなのとか、何を話すのとか、どういう部屋なのって。そこから始まる。

ついこの間もそういう電話があって、私はずっと「一回行ってみたらいいじゃん、行ってみなよ」と言っていたけれど、結局その子は悩んだまま行けなかったんです。だから、この本を薦めました。

いとう 薦めて、薦めて。緩い気持ちで行ったほうがいい。保険が利くのに、もったいないよね。

 本当にそうなんです。読みながら、すごくすてきだなと思いました。こういう対話がいろんな媒体でももっと広がっていったらいいなと思います。

いとう 実際に『ラブという薬』を読んで精神科に行ってくれた人がいたりすると、すごくうれしい。そうそう、調子悪かったら行ってよと。メンタルケアが遅れていますよね、この日本では。

 精神科に行くとなると、私は男性の方が、勇気がいるし、キツイだろうと思っちゃうんです。男性は小さい頃から、男は強くなきゃいけないとか言われて育つので身動きが取れなくなっちゃいますよね。この本のどこかで、「自分は差別しないと思っている人間は怖いよね」という一言がありました。私、自分のことを差別主義者だと思ってるんです。『pray human』にしても、『ジニのパズル』にしても、自分が男性に対して差別している部分がすごく出てしまっていて、それはすごく恥ずかしいことで、公に本になっていいのか不安に思うこともあります。『pray human』で「わたし」が安城さんに、「心の病気も、身体の病気も、全て同じ病気、それをどうして外界の人間は認めたがらない」と言うセリフがあるんですけど、それはそのまま自分にはね返ってくるんですね。私はADHDと言って、注意欠陥多動性障害なんです。もちろん生まれ持った脳なので、生まれつきです。しかし、私は『pray human』では、「小児性愛者」という言葉で表現をし、『ジニのパズル』では「ロリコン」と書いて嫌悪しているんですが、私はそれも、あるいは脳だったり、心の病気かもしれないと昨日の夜まで認めていなかったんです。

いとう 昨日の夜まで?

 自分が差別していることを十分わかっているのに、怒りが強すぎて、無理に認めることもできなかった。でも、小説の中に出てしまう、私の男性に対する偏見というか敵意みたいなものに、いつかちゃんと向き合わなきゃいけないとずっと思っていたんです。それが昨日ちょうどニュースで、小児性愛障害の人がふだんどう生きているのか、本人が顔も名前も出してしゃべっているのを見たんです。その人の穏やかな話し方もあって落ちついて見ていられたんですね。そうしたら、今までとは全然違う気持ちになっていて、私はロリータコンプレックスも小児性愛障害も今まで精神疾患とは認めていなくて、絶対的な悪としてしか見られなかった。『pray human』を書いてから時間がたった今だからこそ、自分だけでなく他の人の痛みにも視線を向けられるようになった気がします。小さいときから聖書を読む機会が多かったので、「自分を愛するように隣人を愛しなさい、人の過ちを許しなさい、そうすればあなたの過ちも許される」という言葉が、小学生のときから頭の中をグルグル回っている。この年齢になって、ようやく彼らをきちんと人として見ていなかった事実を認めて、出来る範囲で彼らの脳だったり、心の働きだったりを学び、理解しようとすることは被害を受けた私にとって、とても重要なことなのだと思います。

いとう すごいですね。そこにも弱者がいるということに気づいたってことですもんね。

 もちろん全員が、とは言い切れませんが。中には泣きじゃくる子供を脅迫し、支配し、楽しんでいる人がいるのも確かです。しかし、彼らが子供に性行為を強要したり、実際に性犯罪を起こしたりする以前、例えばですが、彼らがまだ十代の子供で、他の人と自分は性的嗜好が違うと気付いたとき、この社会の異物に感じたかもしれない。でも、かといって相談所やカウンセリングには行けなかったはずです。悩んで苦しんだ人はいたはずです。そんな彼らを、私は一緒くたにしていた。本当に良くなかった。自分では「心の病気も身体の病気も同じ」と言っておきながら、私は彼らの現状を知ろうとすらしていなかった。とうの昔に、悪と断言してしまっていたから。自分の性欲と葛藤している人がいる可能性は微塵も考えませんでした。彼らの中でも、自分で「いけない、悪いことだ」と日々戦いながら、でも「小児科」とか「子ども」、「小学校」という文字に引き寄せられてしまうという人がいることを昨晩知ったんです。それを知ったとき、私は「ロリータコンプレックス」や「小児性愛障害」をたまたま持って生まれなかったという違いしかないのか、と絶句しました。

いとう ミサンドリーでくくるんでなくて、個的に見るということですね。それはすごく大事なことです。自分の中にもそういった気持ちはあるから、いつも反省しきりだし、いつも勉強だなと思っている。やっぱり人間は自分が大事だから、自分からしかモノを見なくなる。「敵」というものをつくったほうが楽だから、ミソジニーにもミサンドリーにもなる。レイシストにもなっちゃう。でも、もっとぼんやり、にっこりしていたいよね、単純にそれだけなんです。心が硬直しないように生きていくにはどうしたらいいかを、僕は僕のやり方でやるしかないので、こういう対談本をつくってみたりしているんです。

 でも、せいこうさんは、外にも出るじゃないですか。ライブをしたり、国境なき医師団を実際に見に行ったり。

いとう 何だか知らないけど、僕、年をとればとるほど腰が軽いんですよ。

 私も、ここの現場がこんなだと発信する側に立って、いろんな人の話を聞いて、世界を広げられるような大人になりたいです。私もいつかそこにまで到達できたらいいなとすごく思います。

いとう 大人というか、僕はもう年ですからね(笑)。

でも、こういうテーマに向き合って書かなきゃと思うこと自体が、誰にとってかはわからないけれど重要な一つの役割なんだと思います。自分にとってだけかもしれないし、そういうものでも構わない。これは自分の趣味を書いているわけじゃなく、考え方の本でしょう。そういう意味では、僕がリスペクトですね。

 まさか、せいこうさんにそう仰って頂けるなんて、私も書いてよかったなと思います。こんな未熟者の対談相手に来ていただいて、心から感謝しています。せいこうさんとお話をするのは、百年早かったような気がしていましたが、とにかく楽しみにしていたので嬉しかったです。もし良かったら、最後に質問があるのですが……。上野と浅草で開催されていたしたまちコメディ映画祭がまた再開する可能性はあるんでしょうか? あの映画祭を楽しみにしていて、参加するために新幹線に乗るという友人もいたんです。コロナが落ち着いたら、是非そちらの復活も願っています!

(2020年7月14日、講談社にて)
※本対談は、「群像」2020年10月号に掲載されたものです。写真 大坪尚人

いとうせいこう

作家・クリエイター。1961年、東京生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社の編集を経て、音楽や舞台、テレビなどの分野でも活躍。1988年『ノーライフキング』で作家デビュー。1999年『ボタニカル・ライフ』で第15回講談社エッセイ賞、2013年『想像ラジオ』で第35回野間文芸新人賞、第2回静岡書店大賞(小説部門)を受賞。

崔実(ちぇ・しる)

1985年生まれ、東京都在住。2016年、『ジニのパズル』にて第59回群像新人文学賞を受賞。同作は第33回織田作之助賞、芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した。2020年、本作『pray human』が第33回三島由紀夫賞候補となる。

『pray human』書影
著:崔 実

ねえ君、わたしは生きていく。このクソみたいで美しい世界を。
魂を揺るがす、少女たちのレジスタンス。

創作が芥川賞候補になったわたしは、意外な人物からの電話を受ける。17歳のとき入院した精神科で、患者たちのボスを気取っていた「安城さん」だ。8年ぶりに再会した彼女は、別人のように痩せこけ点滴に繋がれながらも、変わらず悪態をつき、わたしの封印した記憶を甦らせていく。精神病棟で出会った仲間たちとの日々、救えなかった親友、そして子供時代の傷――。長い沈黙を越えて、わたしは真実を語り始める。

デビュー作『ジニのパズル』で群像新人文学賞、織田作之助賞、芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した注目の新鋭が、傷ついた魂の再生を描く圧倒的感動作。第33回三島由紀夫賞候補作。

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