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暗黒政治を終焉させた「忠臣蔵・赤穂浪士」、平成日本にもとどめを刺す!?

花の忠臣蔵
(著:野口武彦)
2016.12.13
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赤穂浪士というのもいろいろな見方をされてきました。武士の鑑として文字どおり“忠臣”と語られたのをはじめとして、のちには暗殺集団、テロリストのように語られたこともあります。このように解釈に幅があるものとしては、あとは幕末の新選組ぐらいかもしれません。この両集団はともに武士道を掲げていましたが、異なるのは新選組が時代の徒花的であったのに対して、赤穂浪士は時代の象徴になったということでしょうか。ご公儀(江戸幕府)に疎まれましたが、赤穂浪士は事件以来一貫して大衆に支持・歓迎されていました。

赤穂浪士の行動は、さまざまな思い(観念)を解きほぐせば、端的に復讐という行動です。彼らの行動は元禄という時代だったからこそ“忠臣蔵”として語られるようになったのです。彼らを称揚したのも(大衆と大名)、過剰に疎んじたのも(幕府と一部大名)元禄という時代のなせるわざでした。これを詳述したのがこの本です。傑出した“元禄論”です。

かつて“昭和元禄”と呼ばれた時代がありました。これは「高度経済成長期の天下太平、奢侈(しゃし)安逸の時代をさした語。昭和39年(1964)に、福田赳夫が言い出した語」(『デジタル大辞泉』より)です。もっぱら豊かさや繁栄、時に驕りをも含みながら使われたのが“元禄”という言葉でした。

では実際の“元禄時代”はというと……第5代将軍徳川綱吉の治世の元禄時代は井原西鶴、松尾芭蕉、近松門左衛門、尾形光琳、菱川師宣、初代坂田藤十郎,初代市川団十郎らが輩出し町人文化が栄えた時代でした。江戸初期の武士中心社会へ初めて町人社会・町人文化が対抗してあらわれた時代だったのです。

この町人文化の台頭の背景には「貨幣経済」の浸透というものがありました。「カネがカネもうけする世」すなわち「重金主義」の登場です。このような文書が残っています。
──最近、上方で流行しているのは、ソロバンのできる奴、字のうまい奴、要領のすたれ果ていい奴(「算用者・手書・奉公人」)だそうですが、どこでもご同然なのではないですか。その他いろいろ、武士がすたれ果てたイヤな世の中になったものです。(略)みんな小利口に才覚だけで立ちまわる──(『赤穂義士資料』)

綱吉が幕府財政の困窮を救うために行った貨幣改鋳(改悪)も「カネがカネを生む」からこそ思いついた政策です。この政策は悪性インフレを引き起こし失敗しました。(現代のインフレターゲット論は大丈夫?)

この悪性インフレは浅野内匠頭の悲劇の一因ともなりました。内匠頭は10年前に初めての勅使饗応役をおおせつかりました。その経験からの判断だったのでしょうか、その時の諸経費に若干の増額をして2度目の勅使饗応役を勤め上げようとしました。

けれど貨幣改悪が引き起こした悪性インフレは内匠頭の想像以上に物価上昇をもたらしていました。物価は2倍以上になっていたのです。出費を低く見積もった内匠頭は上野介から見れば世間を知らないケチな“田舎大名”に映ったのです。これが浅野吝嗇説の実情だったのではないかというのが野口さんの考えです。

ともあれ内匠頭は勅使饗応指南役の吉良上野介から不興を買い(?)、江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)での刃傷事件を起こしてしまいます。「覚えたか」という内匠頭の叫びで事件が起こりました。

すぐに「喧嘩両成敗という武士の定法」を破った幕府の裁定がくだりました。将軍綱吉のこの短気、短慮で乱暴(!)な裁定には綱吉の「感情的なもの」が大きく働いていました。

この綱吉の心にあったコンプレックス、母親への複雑な思い、さらには生類憐れみの令を出すまでにいたった綱吉の“個人的事情”の解明はこの本の読みどころのひとつです。実に綱吉の“個人的事情”がこの裁定に大きな影をさしていました。公人にそんなものがあるのかとは思いますが、結果、この裁定も討ち入りを起こさせる重要な要因となったのです。

そして内匠頭に残された家臣たちはそれぞれの思いを持って、あるものは他家へ仕官、あるものは武士をやめ、そしてあるものは主君の恨みを晴らすという行動へ出たのです。

とても興味深い記述があります。それは討ち入りの計画が外に漏れないはずはない。知っている者も多かったが、誰もそれを口外しようとはしなかったのではないかというものです。討ち入り当夜でも吉良屋敷の周辺の屋敷は「好意的中立」の立場で成り行きを見守っていました、周辺の屋敷が掲げた釣提灯の明かりのもとで。

なぜこのような“ひいき”というものがあったのでしょうか。もとより“ひいき”があったからこそ人形浄瑠璃や、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』として広く受け入れられたのです。ではこの赤穂浪士へ向けられた武士・大衆の感情(共感・愛情等)はなぜ生まれたのでしょうか。これがこの本のもうひとつの大きなテーマだと思います。

そしてそれもまた「元禄という時代」がもたらしたものでした。それは新世代の武士の出現です。

──明らかに武士社会の地殻変動が進んでいた。武骨一点張りでない新世代の武士が生まれていたのである。意外に思われるかも知れないが、「武士道」という理念ができ、代表的な著述としてしられる山本常朝の『葉隠』、大道寺友山の『武道初心集』などが世に出たのはこのころだ。──

新世代の武士は賄賂政治に溺れた柳沢吉保やその庇護者将軍綱吉の政治が生んだという面があると思います。さらに、新しい「武士のありよう」になじめないものに、赤穂浪士の振る舞いは武士の鑑として映っていたのです。

ところが周辺での共感に綱吉もまた大きく影響されたのです!
──綱吉はいかにもわがままな先制君主らしく、このころにはもう浅野内匠頭に即日切腹を申し渡したことなどけろりと忘れて、赤穂浪士の一途の中心にすっかり感銘し、助命したい気持に傾いていた。──

厳罰に処すことで「ご政道の権威」を守ろうとした吉保は頭をかかえ、荻生徂徠に処罰の根拠・論理を求めたというのはよく知られています。

「貨幣経済」をもたらし(あるいは享受し)、新世代の武士を生んだ吉保らの幕府エスタブリッシュメントへの批判として赤穂浪士は称揚されたのです。武士の“ひいき”の要因です。

では、大衆(町人)の“ひいき”はどこから生まれたのでしょうか。ここにも「貨幣経済」の影響があります。「財産は財産を呼び寄せ、カネをもっている人が利殖する時代」、格差が広がり「暗黙のうちに社会を動かしている貨幣の魔力にきりきり舞いさせられる人々が大勢いた」時代だったのです。

華やかに見える元禄時代にも「ダークサイド」がありました。しかも将軍綱吉の治政はこの「貨幣経済」の「ダークサイド」から民衆を救出するどころか、貨幣改悪でその「ダークサイド」を広げたのです。綱吉個人のコンプレックスがその治政の欠陥を広げたことはいうまでもありません。

大衆は綱吉・吉保の政治に倦(う)んでいたのです。その閉塞感に大きな穴を開けたのが赤穂浪士でした。

元禄16年(1703年)2月4日に浪士たちは切腹しました。ところがその直後から「大風が吹きまくり、家がゆれるほど」の地異がありました。「四十七人の亡魂の祟り」と噂されたそうです。さらに元禄16年11月にはマグニチュード7.8~8.2と推定される「大地震が関東一円」を襲いました。

そして翌年、元禄17年は3月13日に宝永と改元されます。

赤穂浪士は元禄時代の「ダークサイド」から生まれ、元禄時代そのものにとどめを刺すために生きたように思えるのです。この本は「忠臣蔵・赤穂浪士」を実に多面的に描き上げた傑作です。忠臣蔵論、赤穂浪士論はいうまでもなく、それ以上に元禄論として読まれるべきものだと思います。そしてこの「元禄時代」は「平成」にこそ似ているということに気づかされます。すぐれた歴史論・歴史研究がそのまま現代論・現代批判に通じていることが実感できる1冊です。

  • 電子あり
『花の忠臣蔵』書影
著:野口武彦

「忠臣蔵をレンズにして眺めると、ただ元禄時代という過去の歴史の一齣だけでなく、日本に流れる時間のなかに住まう歴史の精霊(デーモン)の姿を正視することができる。元禄人に目を据える。と、元禄の死者たちもひたと見返してくる。その眼差しは、同時代だからこそかえってものを見えなくする死角を突き抜けて、現代の迷路をくっきり照らし出すにちがいない」
すなわち、いまなお日本人の心性の根底にあるものを、忠臣蔵という「虚構」の享受、語り口そのものを通じて洗いなおそうとする試みです。そのとき浮かび上がってくる普遍にして不変のものが「貨幣の専権」であることに読者は驚くはずです。
本書は、いわば野口版「忠臣蔵三部作」の掉尾を飾るものとなります。

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。

note
https://note.mu/nonakayukihiro

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