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立川談志は弟子に百の噺を課した──落語家はなぜ記憶できるのか?
(著:立川談四楼)
故・立川談志が開いた落語立川流の昇進基準はなかなかハードです。
──談志は昇進に明確な基準を設けました。二つ目昇進には落語五十席と歌舞音曲、真打になるには落語百席と歌舞音曲というものです。(略)まさに記憶力の勝負です。年功でも情実でもなく、五十席と百席、それに小唄や都々逸(どどいつ)、奴さんや深川をマスターすれば昇進できるのです。──
もちろん小咄ではありません。30分以上にわたる長い噺もあります。
落語家にとって記憶力は生命線といってもいいでしょう。完璧な話芸を追求した昭和の名人・桂文楽(8代目)の引退にまつわる逸話が紹介されています。
──昭和四十六年の夏のある日、高座で絶句したのです。ネタは『大仏餅』と聞きました。噺の途中、登場人物が名乗るシーンがあるのですが、その名前が出てこず、黙り込んだのです。──
絶句した文楽師は「もう一度、勉強し直してまいります」と客席に頭を下げ、袖へ引き込みました。そして「その四ヵ月後に旅立って」しまいました。端正な噺を得意とした完璧主義の文楽師は記憶力の衰えが大きな原因となって引退(=死)をむかえることになったのです。
多くの噺を記憶している落語家に記憶術というものはあるのでしょうか。談四楼師は記憶について4つのタイプの人間がいると記しています。
1.すぐ覚え、なかなか忘れない人。
2.すぐ覚え、すぐ忘れる人。
3.なかなか覚えられないが、いったん覚えると忘れない人。
4.なかなか覚えられず、かつすぐ忘れる人。
4のタイプは落語家にはむいてないように思うのですが、どうもそうではないようです。「プロの中にこのタイプがけっこういる」し、「人気者さえたくさん」いるそうです。
で、談四楼師はというと、3のタイプだそうです。「コツコツやるタイプ」で「不器用でも積み重ねることによって、ある水準に達する」ことができるのだそうです。
この本のおもしろさは稽古という修業を通じて談四楼師が記憶する力をどう身につけていったかというところにあります。けれど読みどころはそこだけではありません。入門から真打昇進、そして一人前とだれもが認めるようになるまでの若き談四楼の奮闘ぶりにあります。噺家へいたる道中記とでもいったものでしょうか。
噺はどうやって覚えるのか、それは“繰り返す”ことでしか身につきません。どう繰り返すのか、「声に出して覚える」という家元(談志師匠)の言いつけを守って、いたるところで声に出していきます。満員の電車の中でも、もちろん歩きながらでも……。電車で隣り合わせた人に訝しがられ、席を立たれたのを幸いに(?)、黙々と(?)つぶやき続けて山手線をぐるりと回る……1周約1時間を3周する日々でした。「因(ちな)みに一時間で前座噺を三回から四回」稽古できるそうです。
声に出す、これは「音で覚えろ」ということです。
──リズムとメロディー、つまり唄を覚えるように覚えろということです。──
もうひとつ、手を動かす。師匠の稽古をテープに採り、書き起こす。師匠の語り口をなぞるように書き起こす。手の中の筋ひとつひとつにまで師匠の声が入り込むように……。文字通り身体に染みこませるということなのでしょう。
家元がこう言っていたそうです、「反復だ。リフレインだ。高座で他のことを考えてても口からセリフがよどみなく出るくらいケイコしろ。夢の中でも落語をやるぐらいにならなきゃダメだ」と。これが噺が「体に入る」ということです。記憶をしたとうはこのようなことなのだと思います。
「体に入る」には「反復」だけでは不十分です。促すものが必要です。家元は稽古の時にこうただすことがあったそうです。
──おまえが演る八五郎の年はいくつだ? 仕事は? 身の丈(たけ)、身長は? 太ってんのか痩せてんのか? カミさんはいるのか、一人者か? 酒はどのくらい飲む? バクチは好きか? ケンカはどうだ? 生まれはどこで親はどうしてる? 隠居の年はいくつだ? 連れ合いの婆さんの年は? いくつで隠居したんだ? 倅に家督を譲ったとして、その倅はどこで何をしてるんだ? 倅はときどき来るのか? こっちから行くのか? 孫はいるのか? で、八公はどのくらいの頻度で隠居を訪ねてくるんだ?──
畳みかけるような家元の声が聞こえてくるようです。これは噺のリアリティの追求ということになると思いますが、同時に記憶するには全体感、イメージを持ってこそ「体に入る」ということも言っているように思います。
記憶するには地道な繰り返しと、覚える対象への感情の強さが必要です。談四楼師は家元と落語に深い愛情を持っていたからこそ、記憶力を磨くことが苦にならなかったのでしょう。「体に入る」ことが苦にならないのは、愛情とでもいうものがそこにはあるからだと思います。談四楼師の悪戦苦闘日々を綴るこの本にユーモアがあふれているのも、噺家だけではありません。愛情があるゆえだと思います。
記憶のプロ・落語家が教えてくれたものは“記憶術”というものを越えた“人間把握力”をどう持つかということなのではないかと教えてくれる1冊でした。
せっかく記憶しても、人には忘れてしまう時がやってきます。それにあらがったのが先の文楽師だとしたら、忘れることと戯れ遊んだのが故・古今亭志ん生師(5代目)でした。このふたりの記憶・忘却についてどうふるまったかの逸話が収められているのもこの本のもうひとつの魅力です。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。
note
https://note.mu/nonakayukihiro
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