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“武士道”は作為的な明治思想。首を刎ねて耳をそぐ、本物の武士道とは?

武士道の逆襲
(著:菅野覚明)
2016.07.18
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この本は日本の伝統として私たちが思い浮かべる「武士道」というものが実は近代の発明であり、本来の「武士道」とは全く異なったものだということを明らかにしたものです。『葉隠』を始め『甲陽軍鑑』のような軍学書、『三河物語』『今昔物語』という物語、さらに摂政太政大臣・藤原道長の日記である『御堂関白記』にいたるまで、多くの古典書籍や大名家の家訓までひもとき追求した武士の実像、その筆致はスリリングでページをめくる手が止まらなくなります。

私たちがイメージしている「武士道」というものは明治になって作られました。菅野さんはこの近代的(?)武士道を「明治武士道」と名付けて、その特徴をこう記しています。
──今日流布している武士道論の大半は、明治武士道の断片や焼き直しである。それらは、武士の武士らしさを追求した本来の武士道とは異なり、国家や国民性(明治武士道では、しばしば「武士道」と「大和魂」が同一視される)を問うところの、近代思想の一つなのである。──

本来の武士道とはいうまでもなく戦闘者の思想です。「平和の民にはおよそ想像を超えた異様な道徳」を持ち、「明治武士道の説く『高貴な』忠君愛国思想とは、途方もなく異質なもの」、過激で、ある意味乱暴至極なものだったのです。周知のように首をはねる、耳をそぐ等が武功を明らかにするために行われました。

武士とはどのような存在だったのでしょうか。菅野さんは3つの定義をあげています。
1.戦闘を本来の業とするものである。
2.妻子眷属を含めた独特の団体を形成し生活する。
3.私有の領地の維持・拡大を生活の基盤とし、かつ目的とする。

「武力によって所領を維持・拡大し、そのことで妻子一族を養う存在ということ」になります。ここにあるのは「戦闘者」「共同体」そして「私」というものに対比されると思います。

「共同体」は妻子家族を中心とする親子関係と「従者郎党を構成員とする」主従関係をあらわしています。この共同体のキーとなっているのは「苦楽を共にする時間」というものです。この「主従の間の濃密な時」が「忠」というものを生みだしています。さらに、ここには「情」というものも存在しています。この「情」とはどのようなものなのかは本書を読んでいただきのですが、この「情」こそが「上下関係しかない」主君と家来の関係に「心情の一体性」をもたらす重要なファクターとなっています。主君と家来の関係が独自な「共同体」として成立するうえでこの「情」という要素は不可欠なのです。

この「共同体」とはいうもののを、気をつけなければならないのは、これは極私的なつながりがもとになっているということです。
──主従関係とは、この大久保誰それが、特定のこの主君徳川誰それとの間に見いだす私的な契りのことである。徹頭徹尾、私的で特殊的な間柄であることこそが、頼み、頼まれる関係の基本である。

『三河物語』を読むと、そこで描かれた主(徳川家)従(大久保家)関係(=武士共同体)というものがいかに「情」という心情的な交流に支えられているかがよくわかります。

武士はどこまでも「私」性というものを手放さない存在でした。
──「唯我独尊」という言葉は、ある面で、武士という存在のあり方そのものを端的にあらわしているように思われる。「俺が、俺が」の精神は、いつの時代にも、武士という生き物のきわだった特徴であると見られてきた。「我こそは」とは、己れの力によって一人立つ武士のあり方そのものを示す文句だからだ。──

武士道でいわれる「忠」というものはあくまで具体的な我と具体的な主というものの間に生まれたものだったのです。この極私的なものである「忠」というものを近代国民軍を創設するために「軍人精神」として利用しようとしたのが明治軍制でした。明治になるまで軍隊は諸藩の連合軍でした。これを解体して近代軍制(国軍の創設)を確立させるために「忠」の精神は必要とされたのです。いってみればバラバラの(諸藩ごとの)主従関係を国家のもとに統合するために武士道の「忠」を拡大解釈し、明治天皇への「忠」というものに作りかえ利用したのが明治政府(中心は山県有朋)だったのです。

では「私的で特殊的な間柄であることこそが関係」の基本である「忠」をどのように利用したのでしょうか。その目的で生み出されたのが「大和心」です。これは「天皇と軍人との間に心情的な絆」を生み出させるために創出されたものでした。作られた「情」と呼ぶべきでしょう。そして生まれたのが『軍人勅諭』でした。この時、武士道(武士的道徳)はどうなっていたのでしょうか。
「肝心かなめの武士自身の精神を、注意深く取り除いたところに成り立つ、擬似的な武士道」と作りかえられたのです。近代軍制の成立とともに“古典的(=本来の)武士道”は「否定すべき生々しい過去」とされました。ここには初期明治政府が直面した西南戦争等の“武士の反乱”への“苦々しい”記憶が残っていたのです。

その後、こうして一度は排除された「武士道(武士的道徳)」が形を変えて復活します。これには2派ありました。井上哲次郎のような国家主義者によるものと、新渡戸稲造、内村鑑三、植村正久らのキリスト教徒によるものでした。そして前者は「敗戦と共に忘れられ」、新渡戸稲造らが考えた『武士道』というものが残ったのです。それは血なまぐさを棄てた、道徳・倫理としての武士道の姿でした。

ところで新渡戸らはなぜ「武士道」を取り上げたのでしょう。実はそこには大きなモチーフがありました。
──日本民族の精神が、キリスト教道徳とも通じる普遍的道徳であることを理解させるためには、もっと別の説明の言葉が必要である。(略)その言葉は、何と当の日本人すらも忘れかけていた、封建時代の「旧弊」の中にひっそりところがっていた。それが「武士道」である。

キリスト精神に負けない日本民族の精神をあらわすものとして新渡戸が“発見した”のが「武士道」でした。西欧に負けない日本固有の精神的バックボーンとして「武士道」というものを唱導したのです。ですからそこでは武士の持つ「戦闘性」の要素は排除されて、「義」というものを中心として大きく取り上げるようになったのです。

こうして見いだされた「武士道」は「当事者たる武士はおろか、儒教的な武士道徳をも突き抜けた、まったくの観念と化した」ものとなったのです。
──新渡戸の語る武士道精神なるものが、武士の思想とは本質的に何の関係もないということなのである。(略)新渡戸武士道は、明治国家体制を根拠として生まれた、近代思想である。それは、大日本帝国臣民を近代文化の担い手たらしめるために作為された、国民道徳思想の一つである。──
これが今に続く「武士道」のイメージを作り上げるもととなったのです。

新渡戸「武士道」に対して菅野さんの言葉が記されています。
──「人倫の世にあるは、皆妻子のためなり」(『陸奥話記』)と叫んで戦った「武士の思想」では決してないのである。──

こうして伝えられた「武士道」から私たちはなにを受けとるべきなのでしょうか。
それは「忠君愛国思想」に絡めとられてしまった「明治武士道」の名残をすてて、“私”に着目し“孤=自立”を根底におく「武士道」というものだと思うのです。

レビュアー

野中幸宏

著編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。

note
https://note.mu/nonakayukihiro

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