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夏目漱石はいつでも新しい。常に未来と向き合う人生とは?

漱石人生論集
(著:夏目漱石)
2016.03.07
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漱石は小説を読むだけで終わらせてはもったいない。名作ぞろいの小説で、一作一作ちがった味わいを感じさせるものだから、小説世界を堪能するだけでも十分だと思うかもしれません。でもそれだけではありません。難解な『文学論』だけでなく、断簡零墨にいたるまでどれをとっても漱石の精神が充溢してます。しかも読むたびに新しい発見を私たちにもたらせてくれるのが漱石です。数多くの文学者・批評家が漱石論を書いているのもそれを証しているのではないでしょうか。

小説以外で漱石の世界を訪ねるにはこの本が最適です。もともと、漱石の小説はすべてが〝人生論〟と読めるものでもあります。ですからその点でも、この本には小著とはいえ、漱石の小説世界を読み解く鍵がたくさん潜んでいます。

かつては漱石というと〝則天去私〟の境地ということがいわれていました。〝天に則り、私を去る〟という、どこか宗教的なというか聖人君子風なことがいわれていました。その漱石観に早くから異議を唱えたひとりが中野重治でした。漱石が後世、「道義の文土にされちまつた」ことに対してこう書いています。「漱石つてやつあ暗いやつだつたんだ」(『小説の書けぬ小説家』)と。戦後の漱石論はこの〝暗い漱石観〟が出発点になっています。そしてこの本にいる漱石も決して聖人君子ではありません。現実に眼を背けず必死に生き続けた苦闘の痕がいたるところから浮かび上がってきます。

──私はこの世に生まれた以上何かしなければならん、と云(い)って何をして好いか少しも見当が付かない。私は丁度(ちょうど)霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦(すく)んでしまったのです──(本書より)

正岡子規の同時代人(親友でした)として、子規たちと同様に日本の近代化のために自分は何ができるかを問い続けた漱石の姿がうかがえます。漱石もまた〝坂の上の雲〟を求め続けたひとりだったのです。〝雲〟を見上げ歩き続けました。「山路を登りながら、かう考えた。智に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さを)させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい」(『草枕』)と感じながらも。けれど漱石を待っていたのは、秋山兄弟のような勝利の戦ではありませんでした。

漱石が見た日本はこのようなものでした。
──世の中は下等である。人を馬鹿にしている。汚ない奴が他と云(い)う事を顧慮せず衆を恃(たの)み勢(いきおい)に乗じて失礼千万な事をしている。こんな所には居りたくない。だから田舎へ行ってもっと美しく生活しよう──是が大なる目的であった。然(しか)るに田舎へ行って見れば東京同様の不愉快な事を同程度に於(おい)て受ける──(本書より)

『坊っちゃん』の舞台になった松山行の前後のことに触れた部分です。松山、熊本そして「不愉快な」日本を脱出したロンドン留学の日々。けれどその留学もまた「神経衰弱、漱石狂せり」(江藤淳『夏目漱石』)とまでいわれたものでした。そして帰国した漱石、「遠い所から歸(かえ)つて來」た彼が見た日本は……。それは「好意の干乾(ひから)びた社会に存在する自分を切にぎこちなく感」じさせるものでしかありませんでした。「不愉快」「不快」の念が去ることはなかったのです。

──腹の中は常に空虚でした。空虚なら一(いつ)そ思い切りが好かったかもしれませんが、何だか不愉快な煮え切らない漠然たるものが、至る所に潜んでいるようで堪(た)まらないのです──(本書より)

この「不愉快」の思いを抱えたまま生き続け、書き続けたのが漱石でした。「世の中に片付くものは殆どありやしない。一遍起つた事は何時迄(いつまで)も續くのさ。たゞ色々な形に變るから他(ひと)にも自分にも解らなくなる丈(だけ)の事さ」(『道草』)とも思いながらも。

そしてこの苦闘の中からもうひとつ、漱石の〝淋しさ〟というものが浮き彫りになってきます。「私の個人主義」の中で漱石は個人主義にふれてこう言っています。

──党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党を結び団体を作って、権力や金力のために盲動しないという事なのです。それだからその裏面には人に知られない淋しさも潜んでいるのです。既に党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行く丈(だけ)で、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。そこが淋しいのです──(本書より)

明治日本の果てに現れた〝淋しさ〟です。傑作『こゝろ』の有名な一節に繋がるものだと思います。

──私は未來の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥(しり)ぞけたいと思ふのです。私は今より一層淋しい未來の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と獨立と己(おの)れに充ちた現代に生まれた我々は、其犠牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならないでせう──(『こゝろ』より)

この本にはいつも新しさを私たちに感じさせる漱石のエッセンスが詰まっています。今年は漱石の没後100年です。かつて明治日本の文明開化を〝上滑りの開化〟と見抜いた漱石、現在の平成日本の開化(グローバリゼーション)をどう感じ、どう描くのか、つい想像したくなります。

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。

note
https://note.mu/nonakayukihiro

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