ある日、女子高生が野矢さんに尋ねました。「人生でいちばんだいじなものは何ですか?」と。野谷さんは「無防備にこう答えた。『──遊び友だち、かなあ』。言ってすぐに私は自分の失敗を悟った。彼女はミリ単位で表情を動かしつつ、落胆の色を浮かべた」と。「何か哲学的な答えを期待したのだろう。ところがなんだ、遊び友だち? なにそれ、そのちゃらい」答えと彼女は思ったに違いないと。がっかりした(であろう)彼女の顔を想像したくなります。でもここからが野矢さんの思索の始まりです。
まず、〝友だち〟とはなにかと考えてみる。〝仲間〟とはどう違うのだろうかと。目的意識でつながった〝仲間〟と違って〝友だち〟は「純粋なつながり」だし、「つらいことや悲しいこともある」人生で「一緒に遊ぶ友だちがいれば、どれほどすばらしいだろう。そんなことを、あの答えにこめていたのだ、先生は」と野矢さんの思考は続けられます。普通のエッセイでしたら、ここで終わるでしょうが野矢さんのステキなのはこの後です。
「さらに言えば、我が身を振り返り、どうも人間があまり好きでないものだから、友だちいないなあ、オレ。と、後悔の念もこめていたのだよ」。ユーモアエッセイの神髄ここにあり、というような文章です。ここでクスリとしない人はいないでしょう。巧まざるユーモアというのでしょうか、この本の『前口上』からして顔がほころんでくるような一文です、全文引用したくなるものですが、どうぞ手にとって開いてください。立ち読みで止まらず、持って帰りたくなること間違いないでしょう。
私たちは哲学というとつい敬遠しがちです。でも「日々こうして生きてる。だけどちょっと待てよ。いったいこれは何なのだろう。私は、何をしているのだろう。これはどういう意味なのか、そんな問いが浮かんでくるとき、あなたは哲学に足を踏み入れて」います。ですから哲学を難しいものと敬遠することはありません。ただ立ち止まって考える時間が奪われているからそう思ってしまうのです。
「考えることは、せっかちな頭には無縁のことである。その点、現代は難しい時代だろう。分からないことがあるとすぐにネットで調べる。ウェブ上で質問すると誰かが答えてくれたりする。だから、自分でじっくり考えるよりも、どこかにある誰か他の人の答えを探そうとしてしまう」。しかもそれが正解であるという保証はありません。考えることが仕事である(はずの)大学でも「効率性」がはばをきかせ「かつての大学がもっていた、おおらかさ、伸びやかさ」「無邪気で自由な好奇心」が「薄れ、消えて」いっているのは野矢さんがいうとおりだと思います。「いいかげんとおおらかさは違うよ」。まさにその通りです。「速さの罪」ということが確かにあるのです。
野矢さんも「速さの罪」、「効率性」に追われる日々の中にいます。「私はたえず『何をしてきたのか・何をしているのか・何ができるのか』という問いに晒されている。成果を挙げなければならない。成果を挙げる力を持たなければならない。ええ、それなりにがんばりますよ。でもね、やっぱり重たくなってくる」と感じながらも。
ふと思います「よけいなものをしょいこんでしまっているから、しんどい」のではないかと。そんな時には「着ぶくれたよけいなものを脱いでいく」、「自分をゼロの状態に立ち返らせ」ることが必要です。それには座禅がいいそうです。禅には「足し算ではなく引き算」の思想がある」からです。座禅の仕方も書かれています。野谷さんを見習って、〝引き算〟をしていつも追われている今の自分を解き放つことをしてみたくなります。
また、論理学者として野矢さんは〝論理〟の持つ重要性をこういっています。「論理的でない人は仲間内の言葉しか話せない。仲間内の言葉しか話せないと、『よそ者』を単純に切り捨てて排除することになる」と。それに対して「非論理的というのは、答えになってない答えを返したり、すれ違いに気づかないで相手に反対したり、ぜんぜん説明になっていない説明をすること」なのです。さらには「問いを無視する、賛成も反対もしないでたんにスルーする。説明不足なんか気にしない。そこまでいくと、これは非-論理的というより無-論理的である」と。
〝仲間内〟の言葉しか話さない人たち、〝仲間内〟の言葉を優先する人たちでいっぱいの日本です。しかもそのような中で重視される「効率性」とはどのようなものなのでしょうか。
野矢さんは自分を取り巻く「状況の歪み」ということを記しています。それは「大学だけでなく、教育そのものが変だ。そして今の日本はなんだろう、これは」と思うほどのものなのです。考えなければいけないものを、考え、論理的に語ること。収められたエッセイのあちこちに野矢さんの危機感とでもいったものが感じられます。もちろんそれは私たち自身の危機でもあります。まず立ち止まり、「考えさせない時代」に流されることなくじっくりと考える時間を持つべきなのです。
この本は、おだやかな筆致とユーモアの向こうに野矢さんの深い思索がちりばめられている、とても豊かな本だと思います。と同時に「論理的に書く基本、それは接続詞にある」という野矢さんの思考を実践した文章読本でもあります。
ところで(この接続詞は正しいのでしょうか? 野矢先生)、学生の質問といえばこれも心に残りました。「哲学の先生って、研究室で何をしているんですか?」っていう質問が。野矢さんは実に丁寧に答えています。その答えはぜひ本書の中で確認してください。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。
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