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(著:菊谷 和宏)
本書は『「社会」の誕生』(2011年)、『「社会」のない国、日本』(2015年)に続く、社会学者・菊谷和宏による「社会三部作」の完結編として書かれた作品である。だが、読者はまず巻頭から、著者による予想外の告白に驚かされることになる。
人の生にはよくあることだが、何の前触れもなくがんの罹患を告知された。四年前の夏のことだ。たばこも吸わず酒も飲まない、たかだか五〇過ぎの自分が、まさか。
(中略)
あまりに孤独なこの入院生活についに耐えられなくなり、無理を言って退院したものの投薬治療は続いた。そして、避けられない命の代償として、身体にもはや一生涯治らない障碍が残った。
この間、自分の力で自律的にできることはほとんど何もなかった。できることといえば、せいぜい検査日や入院日、術式を選択することだけだった。それは、それまでの人生の延長ではなかった。〈私〉の生の連続性は断ち切られた。現実感のない、まるで作り話を生きているような日々だった。
続く序章「分解する日本社会」では、現代日本と日本人のありように対する著者の問題提起が語られる。つまりこの本の執筆動機だが、その内容は厳しく辛辣だ。同時に、深く頷く読者も少なくないだろう。たとえば、全世界を襲ったコロナ禍のなかで、日本人があっという間に生活の劇的変化に順応したのはなぜか。実はその準備はずっと前からできていたのだ、という指摘は鋭い。
十五年来の危機は、この分解を後押ししたに過ぎない。それ以前からずっとこの過程は進んでいた。例えば直近のコロナ禍。「ソーシャルディスタンス」の確保が叫ばれ、テレワークなど作業のオンライン化が突然急速に無理矢理押し進められ、人々が急に疎遠になったにもかかわらず、全体としては驚くほどスムーズに「疎遠化」に適応したではないか。
(中略)
要するに、我々はコロナ禍への準備がコロナ禍以前にできてしまっていたのだ。社会の分解は既にそこまで進んでいたのだ。
震災や原発事故といった巨大な危機の不安から逃れるために、人々は安心を求めて「虚構」に飛びついた。やがて日本人は事実と虚構、詭弁と正論の判別すら見失ってしまった。フィクションのなかに生きるうち、分断は進み、他者への無関心も加速。もはや相手を「互いに同じ人間」とは見られないし、もちろん自分のことも「社会を構成する人間」だとは思っていない。社会は今まさに我々の眼前で分解しつつある……。著者はそれを「社会の底が抜けた」状態と形容する。
そして、今こそ「社会」や「民主主義」「多様性」といったものを言葉の意味から捉え直すような意気込みで、著者は三部作のクライマックスに挑む。病と対峙しながらそんな大仕事に取り組んだ精神力を思えば、著者の持つ危機感はさらに強く、切実に伝わってくるはずである。
とはいっても、その内容は決してペシミスティックでも、過度に感情的でもない。冷静な筆致と、豊富な文献の引用をまじえて構築された、現代的かつ読み応え満点の学問書である。
第1章は、前二作の復習的内容と言っていい。三部作をアタマから読み直す時間がない人にも親切な作りと言えるが、もちろん再読のきっかけにもなるだろう。おそらくネタバレにはならないと思うので引用させてもらうと、著者は前二作の要点を以下のようにまとめる。
1 社会と人間(個人、人民)とは自明な、あるいは自然な存在物ではなく、歴史的な創造の所産である。つまり、人類が存在するからといって必ずしも社会が存在するわけではない。
2 社会と人間とは、経験的事実としての生の顕現であり、中でも民主主義(デモクラシー)はその最高度の具現化である。
3 日本に社会と人間は最近まで存在していなかったし、現在も少なくとも十全な形では存在していない。
ここから本書は、上記の結論をさらに各章で深く掘り下げ、視野を広げてテーマを展開していく。曰く「そのような社会を実際に担う人間とはいかなるものか」(第3章)。「彼らが担う社会の具体像である民主的な社会とはどのようなものか」(第4章)。「社会の根底には何があるのか。つまり社会と人間は実際に何に基づいているのか」(第5章)。そして「現代日本で生きるということはいかなる事態であり、いかにすればそこで自律した自由な生を生きられるのか」(終章)という具合である。そこには著者の「社会そのものの歴史と本質を論じると同時に、社会学という学問の歴史とその可能性についても論じたい」という二重の狙いも織り込まれている。
前々作『「社会」の誕生』では、18世紀末のフランス革命を経て成立した民主社会を理論化しようと尽力した学者たち――トクヴィル、デュルケーム、ベルクソンが主に取り上げられた。彼らによる文献は本書でもたびたび引用されるが、そこにはヨーロッパのキリスト教文化というバックグラウンドがあり、日本人にはやや理解しにくいところがあると思いがちである。だが、そうではないと著者は説く。
あらゆる人間は平等であり、個々人との共生によって成り立つ民主社会のイメージは、常に「超越的」思考でしか成り立たない……だいぶ身も蓋もない言い方のような気がしつつ、当時のカソリシズムを基盤とした思想であることを考えれば納得がいく。一方で、その信義を持つためにはキリスト教徒である必要はない、とも本書では明言される。
そう、よく考えてみれば、そうなのだ。我々が民主主義の基礎に置く、「皆等しく人間」という概念は、日常経験とは「ほとんど合致しない」のだ。というよりも、日常経験を、その可感性に基づいて吟味すれば、「まったく合致しない」ことがわかるだろう。
というのも、そもそも言葉の厳密な意味において「同じ人」などありうるだろうか? もちろんありえない。なぜなら、人は皆違った姿形を持ち、百歩譲って同じ身体がありえたとしても、それぞれが空間的ないし時間的に異なった位置を占めているというただそれだけのことで、それらは「同じ」ではない。もちろん「似ている」すなわち「近似的に同じ」ということはありえよう。しかしそれは、先に「同じ」を概念措定して初めてそこからの偏差としての「類似」が現れてくるのであり、「同じ」を前提としている以上、ここでその「類似性」を、人間の同質性の「根拠」として「基盤」に置くことはできない。
かくしてやはり、民主主義(デモクラシー)の基盤を成す大前提「人間の同類性(同質性・平等性)」は、経験に直接与えられたものという意味において可感的な、世俗的なものではありえない。それは、この意味において非可感的な=超感覚的な=非世俗的な=超越的なものでしかありえず、民主主義(デモクラシー)は、それが事実この世俗的な「社会」において成り立ちうるのであれば、このような超越的かつ人間的な基盤に立脚せざるをえないのである。
これはもちろん「多様性」にまつわる議論にもつながる。あえて詭弁と正論の区別をつけない「論破至上主義」が一部にまかり通る現代では、多様性という言葉は「差別」の都合のいいエクスキューズにも使われやすい。だが、そのふたつは断じて違うものであることも、本書は理論的に証明する。曰く、比較によって得られる「差」は、個性ではない。
あなたの能力や属性は、あなたの独自性・固有性つまり「あなたがあなたであること」を支えない。それがどれほど大きなものであったとしても、「差」は創造性の証ではない。
そうではなく、本来の多様性とは、比較不能な、取り換え不能な存在が複数生きているということである。そしてこの多様性は、目指すべき目標ではなく、意志の自律性と相互創造という生の社会的=人間的展開の必然的帰結である。それが我々各人の固有性、固有の人格性を基礎付け、民主社会を現出させるのだ。
今の日本で、そんな多様性に基づいた民主社会が実現できているかというと、だいぶ心許ない。そうした心許なさは明治時代からこの国に存在していたことも示される。
前作『「社会」のない国、日本』では、国家と国民の関係、民主社会のあり方を示す有名な冤罪事件として、1894年にフランスで起きたドレフュス事件が取り上げられた。その16年後、日本では大逆事件(1910~1911年)という、やはり国家主導による冤罪事件が起きている(前者はロマン・ポランスキー監督の映画『オフィサー・アンド・スパイ』、後者は関川夏央&谷口ジローの漫画『「坊っちゃん」の時代』の題材にもなったので、知っている人も少なくないだろう)。
明治生まれの作家・永井荷風は、この大逆事件の顛末を通して「日本とフランスの国民意識の違い」を苦々しく痛感することになる。日本には「社会」がない、と断じた荷風に、著者は共感を隠さない。「個人の覚醒せざること」「官憲万能にして人民の従順なること」「国民の自覚なきこと」などと(おそらく自己嫌悪まじりで)荷風が記した嘆きを、著者は本書後半でさらに鋭く、リアルタイムの問題として掘り下げているとも言える。
考えてほしい。もし今あなたが、「日本の国」と「日本の社会」の違いについて説明を求められたら、どう答えるだろうか。あるいは「日本国民」と「日本人」の違いを明確に答えられるだろうか。
(中略)
はっきりと答えられないとすれば、それは、永井荷風が気付いたように、日本人は自分が社会の一員であること、つまり個人であることに目覚めていないということなのだ。だとすれば、今日でさえ「日本人」は、「国民」ではあっても日本社会を成す=為す「個人」すなわち「人間」に未だなっていないのだと、身に引き付けて感じられるのではないだろうか。
繰り返しになるが、本書が重い病を押して書かれたことを思うと、そのクライマックスに込められたメッセージは胸を打つ。力強い言葉の数々に、勇気や解放感すら与えられる読者もいるかもしれない。「抵抗していいのだ」「理不尽だと思っていいのだ」「声を上げていいのだ」と。
制度の一部として生きるのは確かに楽だ。自分の存在に先だって既にレールが敷かれているのだから。〈私〉の生の意味を考えなくて済むのだから。
だが、それは他人の人生、レールを敷いた人間の人生だ。どう言い繕おうとも、それは〈私〉の人生ではない。それは現実ではない。フィクションだ。
「御上の言うことには黙って従っておけばいい」「世の中が悪くなっても自分にできることは何もない」などといった不健全な考えに陥りやすい人にも、ぜひとも読むことをお勧めしたい一冊である。
- 電子あり
『「社会」の誕生』(2011年)、『「社会」のない国、日本』(2015年)に続く講談社選書メチエ「社会三部作」、完結。
前著以降の約10年、日本は幾度も自然災害をこうむり、実質賃金が上がらぬまま円高から円安に移行し、物価高に苦しめられている。それに呼応して、さまざまなレベルで分断や分離が進行しているように見える。そして、著者もこの期間に人生の苦難を経験し、三部作の構想をいかに完結させるか、完結させられるかを考え続けた。
「日本ではフィクションつまり作り話が増殖し、蔓延し、しまいには事実や現実に取って代わってしまった。庶民の実態とはかけ離れた「好況」、「経済成長」、科学的事実を無視あるいは隠蔽した「安全・安心」、違法な証拠隠滅さえ厭わず明らかな嘘を押し通す国政の運営等々。あげくの果てには荒唐無稽な陰謀論の不気味な浸透……」――そんな現状認識から始める著者は、こう断じる。「今日ついに我々は、ばらばらになり、互いに共に生きられなくなっている。強者・弱者、マジョリティ・マイノリティの話だけではない。人が人として、個人が個人として生きられなくなっている。人々は分断され、「互いに同じ人間同士」であると思えなくなっている」。
それが証拠に、コロナ禍で叫ばれた「ソーシャル・ディスタンス」に、この国の人々はいとも容易に適応したではないか。では、「社会」が存在しないとは、「社会」が存在しないところで生きるとは何を意味しているのか。――この根本的な問いに答えるために、著者は「社会」を成り立たせる最も根底にあるものを問うことを決意した。前2著での議論を簡潔に振り返り、その末に到達する結論とは? 誰もが考えるべき問いを静かな感動とともに伝える完結篇にふさわしい名著。
レビュアー
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。
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