砂漠の町に吹く風。
おそらく、この国に住む人の多くはあまり感じたことのないものだろうが、この漫画はそういう「見知らぬ異郷の風」を如実に感じさせる。稀有な作品である。
町田洋、約9年ぶりの新刊である。その独特の作品世界は、確かに易々と量産できる類いのものではない。近年、話題を呼んだ短編『船場センタービルの漫画』でも、作者自身の言葉として「その時描きたいものしか描くことができません」と率直に記されている。ならば致し方ない、と思わせるだけの作家性が、その作品群にはみなぎっている。
町田洋作品は、選びに選んで引かれた線の芸術と言える。できるだけ軽く、重さを除くように描かれたシンプルな描線。絶妙なバランスで編み出された余白と地平線が生み出す、スケール感と空気感。台詞やモノローグも同じくらい研ぎ澄まされ、文学的だ。
そうして『砂の都』で描かれるのは、無限に広がる砂漠と、同じく広大な空、そしてぽつんと“動く”町である。誤植ではなく、その町は動いている。砂漠をゆっくりと移動しながら、ゆっくりと増殖していく不思議な町が、この物語の舞台だ。辺境の星を舞台にしたデビュー作『惑星9の休日』とも近しい、ファンタジックな詩情、孤独の心地よさが漂う作品世界である。
誰かの記憶が、どこからともなく建物として現出し、町を形作っていく――つまり、その町全体が郷愁の産物ともいえる。人々はその不思議に慣れきってしまったかのように、普通に生活している。どうやらインフラも整っているようで、特に不便はなさそうだ。望むところが高くさえなければ、理想郷といえるかもしれない。
記憶の、愛情の、人生の、その他諸々なにかしらのメタファーとして読みたくなる『砂の都』だが、ハッキリとは意味を断定せず、細かい設定も提示せず、読者の想像に委ねる余地を大きく残している。いかように解釈することも可能だ(解釈したければ、の話だが)。ちなみに、イメージが形を伴って現れるというモチーフも、町田洋作品では繰り返し登場するものだ(「妄執です」の一言が鮮烈な大島弓子の『サマタイム』を想起させるような、短編集『夜とコンクリート』所収の『夏休みの町』『青いサイダー』など)。本作では、そのあやふやなイメージ由来の建造物で当たり前のように生活する人々を描き、おなじみのテーマを一段深く掘り進めるような意欲と奥行きも感じさせる。
この砂漠の町に暮らしている青年が、一人の若い女性と出会う。そこから、物語もゆっくりと動き出す。何も起こらないようでいて、微風のごとくロマンティックな二人の交流を描きつつ、様々な町の記憶のエピソードが詩情豊かに紡がれていく。
シンプルに見えて立体感や奥行き、広がりが効果的に表現された画面構成に、唸るところも多い。寡黙な老人の過去が、彼の死後に明らかになる第3話「銀国」、町に突然現れた迷路のなかで男女が手を取り合う第4話「迷路」などでは、町田洋が優れた「夜の描き手」であることも思い出させてくれる。
異国情緒に溢れ、穏やかな時間が流れるファンタジックな世界観を、安易に“癒し”などと呼ぶのは憚(はばか)られる。読者にとっては“癒し”というより、むしろ“赦し”かもしれない。甘美で寂しい楽園に浸っていていい、という赦し。同時に「このままでいいのだろうか」という、言葉にならない焦燥、閉塞感も、常に小さく鳴り響いている気配もする。
やはりというか、当然というか、砂は崩れる。郷愁には永遠に取りすがることはできない。主人公が「いつかこの場所から出ていかなければならない」若者であるのも、そういう甘さに浸ることを作者が良しとしていないからだろう。そこがいい。
永遠には続かない世界を描く物語ゆえに、終幕に向かうにつれ、儚さと切なさは加速していく。だが、クライマックスにはそれ以上に雄大で、楽観的で、ロマンティックな展望が待ち受ける。この開放感こそ、本作の美点だ。
造本の美しさもまた魅力である。砂の生んだモザイク模様のような美しい装丁を手がけたのは、映画ポスターやパンフレットなどのデザインでも広い支持を集めている大島依提亜。常に手の届く場所に置いて、本の中身も表紙も紙質も、ためつすがめつ眺めていたくなる1冊だ。
レビュアー
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。