「なんで! こんなに! 食べたいの!」……SNSで誰かがアップした美味しそうなごはんの写真に、真夜中でも涼しい顔で「いいね」を押せる女。そんな飯テロ耐性ありの人間と自負してきたのに『ながたんと青とーいちかの料理帖ー』では完全にアウトで、何かとだし巻き卵を頻繁に焼くようになってしまった。
本作の舞台は戦後6年たった1951年の京都・東山。主人公の“いち日(いちか)”は料亭の娘で、ホテルの厨房で西洋料理のコックとして働いている。7年前に夫を戦争で亡くし、これから料理人として1人で自活してゆくと決めた34歳だ。
題名にある「ながたん」とは京都の言葉で「包丁」を意味する。夫が出征する前に託してくれた包丁はいち日の宝物だ。
じゃあ「青と」ってなに? となるのだが、それはこちらの男性、“山口周(あまね)”を指している。
周は大阪でホテルを営む家の三男。19歳。切れもので、辛口で、ものおじせず言いたいことをズケズケ言う若者で、そのあたりが「青いなあ」ということで青唐辛子の京都での呼び名「青と」だ。
物語はこの2人が見合い結婚をするところから始まる。いち日の実家は傾きかけた料亭を立て直すための経済援助が必要で、山口家はこの結婚を足がかりに京都にも進出したい……という家同士の事情による政略結婚だ。
政略結婚ってむちゃくちゃタフだ。「15歳下」というインパクト大きめな年齢差に戸惑ういち日をよそに、デリケートな話もガンガン詰める。強い。が、年齢差以前にお互いあんまり噛み合っていない。
「青と」キツい、これは離縁待った無しなんじゃないの……。が、周はただ婿に来ただけの口の悪い男ではなく、「"料亭 桑乃木"を立て直したい」のだという。山口家の思惑とは別の考えがあるらしい。
ということで、男女の仲というには程遠い関係ではあるが、料亭を中心にした二人三脚がぎこちなく始まる。
お料理界のジョブズ、いち日
結婚から程なくして周はいち日の料理の腕を他の誰よりも認めるようになる。読者もすぐに「いち日のご飯、食べたい……」となってしまうだろう。
こういうちょっとしたコマに1951年の日本の空気感と彼女の優しくてお料理好きな人柄が滲(にじ)み出ていて好きなのだが、いち日は「ごはん」に関してかなり容赦ない人だ。なんせ1951年にパン生地を自宅で用意して、あっと驚く方法で発酵させ、翌朝の食卓に当たり前のように焼きたての自家製「パン・ド・ミ」を並べる女性なのだから。
ドォーン!
ほかほかの自家製パン……なのに「ごはんがええです?」と言ってしまえる余裕。たぶん当時の日本の最先端をゆく朝ごはんだ。この謎の最先端ぶりと、圧倒的な実現力と「えっ、そんなことできるの!?」という姿すら私にはちょっとすでにAppleのスティーブ・ジョブズを彷彿とさせるのだけど、ジョブズといち日が似ている点は別のところにある。
ジョブズの伝統芸の一つに「One more thing」というものがある。魅惑的なプレゼンで全世界のApple大好き人間たちを興奮させたのち「One more thing」と言って革新的な製品やサービスをドカンと発表する追撃の技なのだが、これをやられるとオーディエンスは「なんかすごい! Buy now!」となってしまっていた。いち日も、美味しい料理をもってしてジョブズばりのワンモアシングを展開するのが得意だ。(でもさすが京都の娘さん、とてもはんなりと自然にやる。「そんでな」と)
たとえばあの美味しそうな「パン・ド・ミ」は、こうなる。
ここ以外でも「美味しそう」の追撃が凄まじいので、覚悟してください。
私はこのサンドイッチのくだりを繰り返し読んで読んで途方にくれた。2018年にいるのにパンを自力で焼けない。取り急ぎだし巻き卵だけはたくさん焼いた。ちなみにこちらのすべてが美しく革新的なサンドイッチは周のお弁当です。
「胃袋を掴(つか)む」という言葉があるが、あの戦略っぽい表現が少し苦手だ。でも、いち日は「美味しいものを作りたい。食べてもらいたい」と誰に対しても考えて実行する人なので、ごはんの美味しさと美しさが素直にこちらの胸と胃に響く。結婚してまもなくの頃、まだ周を信頼できなかった時ですら、いち日の作る料理は素晴らしく美味しかったのだ。しかも食べてくれる周のことを考えた献立だった。
若くて青くて不器用な周も、そういういち日の料理人としての強さと優しさに心を動かされているように見える。この機微がとてもいい。周はいち日の理解者で、いち日の料理を新しい世界に導いてゆく。
「料亭を立て直す」のは、まだまだこれから。「夫婦」としても、まだまだこれから。物語は始まったばかりで、ゴールは程遠く、2人の距離は少しひらいたままだ。でも、なんだかとてもよい「ご縁」と「ごはん」の香りがする。
レビュアー
元ゲームプランナーのライター。旅行とランジェリーとaiboを最優先に生活しています。