『1日外出録ハンチョウ』は、卓抜したギャグセンスで「このマンガがすごい・オトコ編」の1位を受賞した『中間管理録トネガワ』に続く『カイジ』のスピンオフ作品である。
『カイジ』で印象的な悪役をつとめた帝愛グループ重役、利根川の日常をおもしろおかしく追いかけたのが『トネガワ』であり、同じことを地下強制労働施設の大槻班長でやったのが『ハンチョウ』──そう思った人、多いでしょ? 違うよ。『カイジ』ふうに言うなら、
まさに猿知恵‥‥。
救いようのないクズ‥‥。
となるだろう。
2作品は作者が異なるとか、掲載誌が違う(『トネガワ』は「コミックDAYS」、『ハンチョウ』は「週刊ヤングマガジン」の隔週掲載)とか、書誌的に異なっている点はむろんある。だが、真に違っているのはそこではない。
「中間管理録」とは言うものの、利根川は課長とか係長とか、そのへんにいくらでもいる中間管理職ではないのだ。カイジとの勝負に敗れたために失脚してしまうが、それさえなければ、帝愛グループのナンバー・ツーだった人である。エライ人なのである。もっといえば、『トネガワ』とはそういうエライ人が感じている苦労を笑う作品だ。
ところが、『ハンチョウ』の主人公、大槻はまったくエラくない。だから、日常を追いかけたところでおもしろくはならないのである。
大槻は地下の強制労働施設ではそれなりの立場かもしれないが、所詮は多重債務者のひとりである。借金に借金をかさね、首が回らなくなって強制労働しか返済の手立てがなくなった、いわば一般的な生活力のない人なのだ。
にもかかわらず、彼は相当に悪くてズルくてコスい。同じ立場の多重債務者をがんじがらめにする物販を運営し、債務者を地獄に引き込むチンチロ賭博を開帳する。これはイカサマ賭博であって、必ず大槻が勝つようになっているのだ。
彼はこれらの悪行を、優しく親切な先輩を装って行う。ホンモノの鬼畜と断じていいだろう。
大槻はそうやって貯め込んだお金を使って、地下強制労働施設の労働者全員の憧れである1日外出券を使って娑婆に出る。時間は1日限定だし、地下でどんなに小金を貯めたって大金持ちになるわけではないから、泊まるのは格安ビジネスホテル、食べるのは基本的にB級食である。
作品の初期コピーによれば、これは「理外の飯テロ漫画」だった。つまり、『ハンチョウ』は外出時の大槻を描くことによって「お金をかけずに食べるおいしい食事」を描こうとしていたのである。
ところが、近年はそうではなくなってきた。
ひょっとすると、ネタがなくなりつつあるのかもしれない。所詮はB級食、そんなにうまいもんがごろごろあるはずがない。しかもそれをおもしろおかしく演出しなければならないとなれば、ネタはさらに減るだろう。わざわざ名古屋に行くとか、金を貯め込んで高級料理を食うとか、禁じ手とも言える手を使い出しているのもたぶん、そのせいだ。
だが、それが功を奏したのである。
『ハンチョウ』は今、描くのが困難なことをたやすく表現できる希有の作品になっている。
たとえば、大槻は同僚の沼川・石和とともに外出し、勤めあげて地下施設を出た友人をたずねる。地下施設を出る権利を得たということは借金を返済したということだが、だからといって贅沢な暮らしができるわけではない。中年と言っていい男の、わびしいひとり住まいである。言いかえれば、元多重債務者の独身中年のアパートを現多重債務者がそろってたずねるということで、そこだけとれば悲惨しかない話だ。
だが、これが楽しそうなのだ。
食っているのは宅配ピザだし、どこのコンビニでも売ってるアイスだし、大判焼きだし、もはやB級グルメ食でもない。誰でもいつでも食べられる、なんということのない食い物ばかりだ。別のシチュエーションで語れば、「まずいもの」代表にされてしまうだろう。
だが、これがうまそうなのだ。てゆっか、絶対にうまい。
くだらないことを話しながら、一夜を明かした友達とこたつでぬくぬくしつつ食べるアイス以上に、うまいものがあるだろうか。レジの女性にほのかな恋心を抱きながら買う大判焼き以上に、ドキドキさせてくれる料理があるだろうか。それを友人に打ち明けるとき以上に、友情のありがたさを感じられるときがあるだろうか。
ここに描かれているのは、幸福のかたちだ。『ハンチョウ』はそれを描ける作品になったのである。
大企業の重役である利根川の収入は相当なものにちがいない。着ているスーツはかなり高価だろうし、大槻が一生かかっても食えないようなものを、しょっちゅう食っている可能性も高い。
だが、幸福の量だけを比較したら、大槻のほうがずっと多いのかもしれない。
大槻は幸福を得ることを狙って1日外出している。1日と時間が限定されているからといって焦らないのも、安くてうまいものを知っているのも、幸福を得るにはどうしたらいいかよくわかっているからだ。
じつは、これを知っている人間はほとんどない。わたしはむろん知らないし、たぶんあなたも知らないはずだ。それを知ってるってすごいことなんだよ。
大槻は地下で強制労働させられる多重債務者である。卑下されてもおかしくない存在だし、事実されてもいるだろう。
だが、それなりの会社に就職してそれなりの給料を得てそれなりの奥さんをもらってそれなりの家庭を築く最大多数・没個性の人生が、大槻より幸福だとは決して言えないのだ。すくなくとも大槻は、新橋のサラリーマンよりずっとうまそうにビールを呑んでいる。
『カイジ』ふうに言うならこうだ。
幸福とはなにか?
これはそれを描いた作品‥‥。
悪魔的っ‥‥!
悪魔的作品‥‥!
レビュアー
早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社ブルーバックス『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの?』を出版。「IT知識は万人が持つべき基礎素養」が持論。2013年より身体障害者になった。