『ハロー張りネズミ』は黎明期の「ヤングマガジン」の看板作品です。
おおヤンマガの看板とはすげえじゃねえかと思うでしょ? ところが、本作連載当時のヤンマガは今とはまったく異なり、販売部数も社会的影響力もずっと低かったのです。大ヒット作『ビー・バップ・ハイスクール』が世に出る前で、人気作品にも恵まれませんでした。雑誌を休刊にするかどうかの会議が催されたこともあったと聞きます。
作者の弘兼憲史にとっても、生涯の代表作となる『課長 島耕作』がまだ単発の読み切りだった時代の作品であり、原作者つきの『人間交差点』に次ぐ連載でした。人気も知名度も今よりずっと低かったのです。
『ハロー張りネズミ』の頃の弘兼の絵は今のように完成しているとはいえません。こと技術に関しては今の作品の方がずっと優れていると思います。
しかし、テクニックと作品のおもしろさの間には、相関関係がほとんどありません。
むしろ本作には、当時の作者が抱えていた野望や希望や鬱屈や不安が、絵や物語のそこかしこににじみ出ており、それが得難い魅力のひとつになっています。それは泥くさいものかもしれませんが、個性の発露そのものでもあるのです。
ご存じの方も多いと思いますが、この作品は現在(2017年8月)TBS系列で連続ドラマになっています。出演は瑛太、深田恭子、森田剛、山口智子。脇役やゲスト陣もたいへん豪華で、TBSがこの作品にかけた意気込みが感じられます。
弘兼憲史の作品がテレビドラマになるのはめずらしいことではありません。『ハロー張りネズミ』の映像化もこれがはじめてではなく、ドラマになると聞いてもフーンと思っただけでした。
ところが、ドラマのウェブサイトを見て驚きました。ここまで原作リスペクトを表明しているとは思わなかった。30年以上前の作品なのに! その驚きは実際に放映されたドラマを見ても失われることはありませんでした。
主人公のハリネズミは探偵ですが、本格推理の天才探偵ではありません。浮気調査を主業務にしているような、町の小さな探偵社の探偵です。ここに、この作品の大きな特徴があります。
『ハロー張りネズミ』にはさまざまなタイプのストーリーがあります。恋愛あり、ヤクザあり、薬物取引あり、ギャンブルあり、密室殺人あり、ホラーあり、エロあり、スパイ・ストーリーあり、経済ネタ(株の仕手戦)あり。ハリネズミは世界を股にかけた活躍をしたかと思えば近所の喫茶店の従業員に心を砕いたり、じつにいろんな場所で活躍しています。縦横無尽も決して比喩ではありません。
天才探偵は絶対に幽霊と一緒に登場することができません。もし幽霊が見えたならそれはトリックであり、天才探偵はそれをあばくのが仕事です。ところが、ハリネズミは天才探偵ではありませんから、幽霊は幽霊のまま現れます。ドラマでは蒼井優が演じたかわいい霊媒師も登場できるのです。すべてその伝で、『ハロー張りネズミ』とは制限のない、なんでも語ることができる自由なフォーマットだと言えるでしょう。
作者がここで、自由に想像の翼をはためかせ、楽しんで物語を構築していることは、作品のあちこちに表現されています。思い切り腕を振り回したら、どこまで投げられるだろう。いっちょ試してみよう。そんな若々しいチャレンジも見受けられます。この作品はそれさえも許すふところの深さがあるのです。
さきに、黎明期の「ヤングマガジン」は休刊も検討されるような、部数のすくない雑誌だったといいましたが、そのことも作品にはプラスに作用していたのでしょう。トップ雑誌の看板作品には、大きなプレッシャーがつきものです。読者がすくないということは、儲からない反面、とても気楽なことなのです(これは、作中でも売れないマンガ家のセリフとして語られています)。
ドラマの脚本と演出は『モテキ』や『バクマン。』の映像化を手がけた大根仁ですが、彼をふくめ、ドラマのスタッフには、わかりすぎるほどわかっていたのでしょう。この物語の自由さは、望んでも得られない貴重なものだと。それが原作リスペクトにつながっているのだと思われます。
実際、幽霊が出てくるホラーとトリックのある密室殺人が同居できるフォーマットなんてそうそうありません。
弘兼は現在、「モーニング」で『会長 島耕作』を連載しています。あまり指摘されないことですが、こんなに描きにくい題材はそうそうありません。だって、社員が何万人もいる世界企業の会長であり、70歳になるおじいちゃんの話なんて、おもしろくなるはずないでしょう? しかも、みんなその人が「いる」ことを知っていますからウソは描きづらく、にもかかわらず会ったことがある人は少ない。そんなキャラクターを主人公にして物語をつむぐなんて常人ワザとは思えません。
こんなもんよく描いてるなあ、アクロバティックなことやってんなあといつも思います。こういうと失礼ですが、心から感心してるのです。ほんとすげえよ弘兼憲史。
それも、若き日にこうした自由な作品を描いていたから可能なのでしょう。なんでもできる作品だからこそ、あらゆる可能性を試すことができた。この作品で作者が得たものはとても大きかったはずです。『ハロー張りネズミ』とは、困難に挑む作家・弘兼憲史を作った作品である、ということも可能でしょう。
ちなみに、私はこの作品の舞台である板橋区赤塚に住んでいたことがあります。赤塚って、ほんとになんてことのない町なんです。たとえば中央線沿線あたりとは異なり、ここには町自体にドラマがありません。どこにでもある商店街そして住宅街です。
だから、よかったのでしょう。高円寺の探偵や世田谷の探偵は活動が制限されます。町が意味を背負っているからです。赤塚の探偵は、その点でとても自由です。
しかもほんとにいそうなんだよ、ハリネズミみたいなやつが、赤塚の路地裏とかに。
レビュアー
早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社ブルーバックス『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの?』を出版。「IT知識は万人が持つべき基礎素養」が持論。2013年より身体障害者になった。