この作品を成立させたもの、それはワインである──。
そう語っても、決して言い過ぎにはならないと思われます。
作画の弘兼憲史も、原作の樹林伸も、マンガ界きってのワイン通です。
島耕作はかつて、ワインビジネスに携わった経験があります。
ハツシバの部長になった島耕作は、子会社の出向役員としてワインの買い付けをおこないます。当時、電機企業が酒類の輸入販売を業務とする子会社を持っていることはめずらしいことではなく、これはそれにならったストーリーでした。ここで島耕作はフランスに赴き、ブドウ畑やワイナリーを視察しつつ、フランス人と女をとりあったりしています。これは、作者がワインに夢中だったからこそ成立したシリーズだと言えるでしょう。
一方、樹林が亜樹直の名でワインマンガ『神の雫』の原作者をつとめていることをご存じの方も多いでしょう。『神の雫』はワインを扱ったマンガの最大のヒット作です。
本作のあとがきでも明らかですが、両者の友人関係は古いものです。おそらく、ワイン会などで同席することも多かったのでしょう。ワイン会は異業種の人間を多くふくむ好き者たちの集まりだったと思われますが、そこは同業者、話が合うことも多かったにちがいありません。そして、こう言い合っていたはずです、「いつか共作しようね」
両者とも、社交辞令で言っていただけでしょう。しかし、瓢箪(ひょうたん)から駒が出ること、じつはめずらしいことではありません。弘兼も樹林もそのことをよく知っています。さらに、そのためには縁が必要であることも。ワインがそれを用意する恰好の酒となったことは、想像に難くありません。
さて、『島耕作の事件簿』です。
ここでの島耕作は、課長時代──四十代前半、いわば壮年期です。ただし、当時の彼は、ほかの四十代前半の男よりも、すこしだけ孤独だったかもしれません。
「家に帰ってもひとりだ」
「赴任先で友を失った」
彼はそう語っています。
誰もがうらやむ成功を手にした人なので見落としがちになりますが、島耕作はプライベートでは決して幸福ではなかった人です。妻も子も失っていますし、友も早く亡くしています。まして、このときの彼はのちの成功など想像すらできない一介のサラリーマンですから、独り身のさみしさは身にしみたことでしょう。
しかし、このさみしさが、事件を呼び寄せてしまいます。酔った勢いで関係した名も知らぬ女が、かたわらで死んでいたのです!
主人公が殺人容疑者となり、追われる身となることが、読者のハラハラドキドキを喚起し起伏ある物語をつくることは、同じように主人公が殺人容疑者となる「金田一少年の殺人」が今でもシリーズ屈指の人気ストーリーであることを見ても明らかです。樹林は経験上、そのことをよく知っていました。
しかし、島耕作は探偵ではありません。ビジネスの才覚は人並み以上にあったにちがいないが、疑惑を晴らすためみずから推理をめぐらし真犯人を特定させるのは難しい。
そこで登場するのが私立探偵のグレさんです。彼は弘兼のもうひとつの代表作『ハロー張りネズミ』のサブキャラクターであり、「島耕作シリーズ」にも幾度となく登場し、島耕作を助けています。彼が要所で活躍するからこそ、この物語は推理劇たり得ているのです。グレさんはふつうは知り得ないようなさまざまな情報を島耕作に提供するとともに、裏社会に通じているところも見せています。
なお、弘兼は『青春ヤンマガ』でグレさんと島耕作の出会い(厳密には再会)を描いています。なるほど2人はこうして出会ったのねと知ることができるとても興味深い一編です。グレさんの意外な恋人もわかる楽しい番外編ですから、興味ある方はぜひ。
事件はやがて、「66開発計画」に接続します。悪魔の数字666を彷彿させるとても不気味なネーミングですが、これは島耕作の課長時代、すなわちバブル時代に本当にあった名前です。この計画はのちに、誰もが知る地域を作っていくことになります。こうした歴史の裏側にある事実が物語の筋立てに利用されていることも、本作の特徴といえるでしょう。
バブルとはなんだったのか。それが崩壊したとき、何がおこなわれていたのか。推理劇ですから当然、物語のなかで殺人が描かれますが、ここで表現されたようなことはきっと現実にもあったことでしょう。この作品はそんな迫真力に満ちています。言いかえれば、『島耕作の事件簿』は単なるミステリードラマではなく、社会派のストーリーです。
さらに、弘兼×樹林だからこそ表現されている見事な構成についてもふれておかなければなりません。これこそ、ベテランだけが持つハイテクニックです。たくさんありますが、2つご紹介しましょう。
ひとつは、この話がたいへんにおもしろいこと。
当たり前じゃないかという人も多いことでしょう。だが、推理劇はとにかく話がややこしくなり説明が多くなるものです。誰にもバレないようにトリックをしかけアシがつかないように人殺しをしようというのですから、方法が煩雑になるのは当然のことです。しかし、エンターテインメントは……もっといえばマンガは、絶対に説明に終始してはなりません。トリックは可能なかぎり簡潔に表現されねばならないし、誰でも理解できるように語られなければならないのです。かといって、ミステリーの醍醐味である意外性はそこなわれてはなりません。これ、口で言うのは簡単ですがすさまじくアクロバティックなことです。この作品では、それが平然とおこなわれています。
もうひとつ「すごいなあ」と思わずにいられないのは、この作品がきっちり10話で完結していることです。推理ドラマは話がややこしいですから、作者はなかなか物語の尺まで気をまわすことができません。通常の連載作品ならそれでもいいのです。話が長くなってコミックス3巻分になろうが、思ったより短くて3話で終わろうが、あまり気にする必要はありません。
しかし、これはスピンオフ作品、いわば企画ものです。だらだら長くやるわけにはいかないし短すぎてもいけない。おそらく、何を語るか、ストーリーも決まっていないうちに、長さ──「10話」「コミック1巻ぶんのページ数」は決定されていたにちがいありません。
物語は、そこにぴったり合うように作られました。しかも週刊連載ですから、読んでいる人に「続きを読みたい!」と思わせなければなりません。そのためには話の山場をどこに持ってきてどこで切るかも考えなければなりません。弘兼も樹林もベテランですから、こんなことは常識に属することだったでしょう。おそらく申し合わせもしていないと思われます。
しかし、こうした「プロのワザ」を存分に味わうことができる作品はそう多くはありません。その意味で、これは希有の作品だということができます。
ああ、それともうひとつ。この作品にはすごい希有があるんだ。それを伝えておかなくちゃ。
課長島耕作とグレさんの2ショットが描かれたカラーイラストは、これまではなかったし、おそらくは今後もありません。この本の表紙になっているものだけです。あなたが今手にしている本は、じつはすごく貴重なものなんだよ。
レビュアー
早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』『12歳からはじめるJavascriptとウェブアプリ』(ラトルズ)を、個人名義で講談社『メールはなぜ届くのか 』『SNSって面白いの?』を出版。2013年より身体障害者になった。
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