2001年、雑誌「イブニング」の創刊とともに、『ヤング 島耕作』が開始しました。当時、リアルタイムの島耕作──「モーニング」で連載中の島耕作──は取締役に就任するかしないかの頃で、見た目はどうあれ、おじさんを通り越して、おじいちゃんと呼んでも差し支えないような年齢になっていたのです。
だからでしょう、入社式に臨む新入社員の島耕作はとても清々しく溌剌として見えたものです。それは新雑誌創刊のフレッシュなイメージにも、大きな役割を果たしていました(「イブニング」創刊号の表紙は新入社員の島耕作)。
ご存じのとおり、「島耕作シリーズ」は『課長』からはじまっています。課長から続く現在の島耕作が「モーニング」で描かれ、課長以前の過去が「イブニング」で語られるというスタンスがここで確立しました。
社長や会長には任期がありませんから、理論上は永遠に続けることができます。ところが、課長以前の過去はそうではありません。いずれ主人公は課長になることが決まっているわけですから、昇進を重ねなければなりません。また、いずれ離婚する妻や法律上、片親になってしまう娘とのトラブルは、『課長 島耕作』の重要な要素ですから、結婚や出産などのイベントもかならず入れなくてはなりません。「過去の島耕作」にはそんな制限があるのです。
これについて作者は、こう語っています。
──奥さんとの関係がうまくいってない、という設定をつくったときには、当然、その出会いを描くことになるとは思ってなかったんですね。
思ってないですね。というか、『ヤング 島耕作』も、当初は「読み切りで何回か」という約束だったんです。「島耕作の若き日を描く」という企画も、編集部が持ってきたものでした。だから、結婚するところまで描くとは思ってなかった。
やがて、新入社員だった島耕作は成長して、主任を経て係長に昇進することになります。『係長 島耕作』が終わるとき、リアルタイムの島耕作は会長に就任していました。ここで新入社員から会長になるまでを描く「サラリーマン・サーガ」が完成を見たことになります。
ときに、弘兼憲史は、次のような発言もしています。
──『島耕作』シリーズは、編集部の企画で、というパターンが多いんですね。
『課長』はもともとオフィスラブがテーマの読み切りを編集部が連続のストーリーにしたものですし、「島耕作を昇進させよう」というのも、編集部が持ってきたものです。そういう意味では、『島耕作』は編集サイドが持ってきた企画で成立した作品だ、と言えるかもしれませんね。
おそらくは『学生 島耕作』という作品も、編集部の企画ではじまったものでしょう。ただ、さすがにこれは、ツッコミいれた人多いんじゃないかなあ。
「学生かよ!」「サラリーマンじゃねえのかよ!」
もっとも、面白そうだな、と思ったのも事実です。島耕作は団塊の世代ですから、学園紛争がもっともはなやかだったころを大学生として経験しています。この時代は「闘争の季節」とも呼ばれ、政治や大学などそれまでの権威に反発するのが世界的なブームになっていました。したがって小説の題材となることはとても多かったのですが、マンガにはほとんど描かれていません。
なにしろ、「コミックス」という刊行形態が生まれたばかりの時代です。表現としてのマンガが未分化で、同時代の習俗を活写することが難しかったのかもしれません。
初芝電産に入社できるぐらいですから、島耕作が学生運動に熱心だったとは思えませんが、時代の風は大いに感じていたことでしょう。
『学生 島耕作 就活編』は、『学生 島耕作』のクライマックス、大学4年生の島耕作を描いたものです。
島耕作は初芝しか受験していませんが、これは当時の就活事情を反映しているといえるでしょう。当時は複数の企業を受験する文化がなく、「内定を蹴る」のはとてもまれなことでした。高学歴の学生は一本釣りされることが多かったようです。
大きな事件をはさみつつ、島耕作自身の就職が早い段階で決まっているのは、そんな当時の就活事情が反映されているためです。「就活」は今後、島耕作の周囲のキャラクターをメインに描き継がれていくと思われます。
一方、就職が決まった後の島耕作は、アルバイトや恋愛、交友などに時間を費やしています。残念ながら当人は自覚できないことが多いのですが、これはとても贅沢な時間です。カネはないけど、ヒマだけはたくさんあります。今後の人生を仕事に費やすことになる男の、人生最大の長期休暇と言えるでしょう。
本作の裏テーマは「島耕作はこの贅沢な時間をどう過ごしたか」にあります。
さすがというべきか、島耕作、モテまくってます。バイト先の美人には誘惑され、謎の外国人女性には滞在先のホテルで身体を求められ……のちの性豪ぶりの片鱗も見せていますが、一方で注目すべきは、彼が失恋していることでしょう。
この失恋の際、相手の女性が口にした文句とほぼ同様のセリフを、中年になった島耕作は別の女性から聞いています。そうか、あそこで言われることと同じことを若いときにも聞いていたのか……と思うとなかなか感慨ぶかいですが、本作には、「あ、このエピソードはあの話の伏線になっている」「この人とはこういう形で出会っているのか」というシーンが頻出しています。つまり、「島耕作シリーズ」の熱心な読者ほど、発見が多く楽しいストーリーになっているということです。
おまえはどうなんだって?
もちろん全部わかっています。だって自分は、『島耕作クロニクル』という本の編集者であり主筆だったんですよ。島耕作がセックスした回数を数えてそれを表にしたりグラフにしたりそれっぽい解説をつけたりしたのは世界広しといえども自分だけです(ヘンな自慢だなあ)。
ただし、この作品は「島耕作シリーズ」にまったくなじみがない読者でも楽しく読むことができます。エンターテインメントとしての完成度の高さも一級品です。
ご存じのとおり、リアルタイムの島耕作は世界企業の会長になっています。偉くなるのはたいへんめでたいことですが、「行動が制限される」ということでもあるのです。
たとえば、本作では島耕作が安い中華屋を訪れるさまが描かれていますが、会長・島耕作はたぶん、あの店には行けないでしょう。
大人になるって、じつは制限が増えるということかもしれません。家庭を持ち子を持つと、自分の自由な時間がどんどん失われていくように。
「しがらみのない、自由な島耕作」が見られるのも、この作品の大きな特徴のひとつになっています。
レビュアー
早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの?』を出版。2013年より身体障害者になった。
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