どこからかじっても濃くて熱い餡(あん)が出てきそうなので、『到達のアクタ』には「やけど注意」とどこかに貼っておいてほしいなあと毎話思う。
全員が前のめり。ページをめくるのが楽しい。で、前のめりの方向がそれぞれ異なるので、油断するとすぐに爆発しそうでパツパツ。共通点は「役者」と「感動」。そしてそれらに傾けるカロリーも等しい。でもアプローチの方法がまるでちがうし、搭載しているエンジンもまったくちがう。
片方は天才だ。
学芸会に一瞬だけ登場する名もなき人(役名は「貧民」だ)の演技で観客の心をかっさらう。誰に教わったわけでもない、勉強したわけでもないのに、そこにヒョイッと到達してしまう。「自分は天才だ」と信じる人はいるかもしれないが「どうやったら天才になれるんだろう」と思う人はあまりいないはずだ。なぜなら最初から決まっているから。
では天才ではない人は? 生まれながらの凡才は天才に勝てるのか。勝つ方法はあるのか。
“天津アリサ”のお母さんは有名女優だ。お母さんは仕事が最優先で家を空けがちだから、小学生のアリサはひとりでごはんを食べたりしている。
お母さんは家にいても演技に夢中。アリサがそこにいるのにも気がつかず、カッと目をひらいて、テレビ画面の向こうの演技に感動している。こんな目でアリサを見たことはない。
だからアリサは学芸会でのお姫様役の稽古をものすごくがんばっていた。お母さんが見に来てくれるから、お母さんを感動させたかったのだ。
でもその目論見は大きく外れてしまう。お母さんはアリサのことを「良かったわ」とほめてくれたけれど、お母さんを感動させたのは、お姫様役のアリサではなく、チョイ役の貧民を演じた“黒川凪”だった。
お母さんには黒川凪が「特別」だとすぐにわかった。そして黒川凪を自分のいる芸能界にいざなう。アリサだって演技が好きなのに、芸能界に行けばたくさん演技ができるのに、どうして黒川凪だけ?
お母さんをどんどん問い詰めるアリサ。なんて怖い場面なんだろう。子は親を選べなくて、アリサは「演技の天才」の子に生まれてしまった。
なんて血も涙もない……と思うが、実はアリサにも「役者の資質」がある。
しかも偉大な役者になれる資質なのだという。
お母さんや黒川凪の演技は、まるで役が憑依したようなものだ。本作でも解説されるが「メソッド演技」といわれる。ちなみに、このメソッド演技やスタニスラフスキー・システムと呼ばれる演技法を演劇のワークショップなどで実践すると、経験の浅い役者だとちょっと具合が悪そうなだけに見える。いち観客としては、それを見て「すごい!」と感動するまでの道のりが長いなあという印象だ。
対するアリサの役作りは、お母さんや黒川凪のメソッド演技とは異なり、役を取り巻く世界や作品の背景や構造を分析しまくり、役に近づいていくタイプだ。
家にたくさんの映画があって、演技論の本もいっぱいあって、毎日毎日それらに触れて、小学生のころからノートにびっちり書き込んで分析してきたアリサ。演技が好きで、お母さんを演技で感動させたくてやってきたのだろうと思うと切ない。
そしてこの役作りもまた演じる人次第であり、「すごい!」と感動するまでの道のりが遠いはずだ。ただ、遠くてもやればいいだけなのだ。常人には想像もつかないくらいの努力と研さんを積み上げて自分の演技を磨き上げれば、天才でなくても、いつか人を感動させることができる。
やがてアリサは芸能界入りを果たし、オーディションを勝ち抜き、ある映像作品に出演することになる。オーディションに台本の読み合わせ。どのフェーズでもアリサはありとあらゆる手を使って演技し、見るものを圧倒する。そしてその映像作品にはあの黒川凪もキャスティングされている。
天才に挑む凡才、親と子の因縁。どこを向いてもヒリヒリして痛い。とても業(ごう)の深いマンガだ。
レビュアー
花森リド
ライター・コラムニスト。主にゲーム、マンガ、書籍、映画、ガジェットに関する記事をよく書く。講談社「今日のおすすめ」、日経BP「日経トレンディネット」「日経クロステック(xTECH)」などで執筆。
X(旧twitter):@LidoHanamori