“各分野で深い知見を持つ専門家やジャーナリスト、作家等を起用し、ビジネスパーソンに上質な情報を提供する”というコンセプトを掲げるWEBメディア「現代ビジネス」。そこに2016年以降に掲載された膨大な数の記事から、16編の論考を選りすぐった1冊である。各章のテーマはいずれも興味深く、またWEB記事として読みやすく整理された内容なので堅苦しさもない。バラエティに富んだトピックと、16名の書き手それぞれの個性が、まさに現代社会の多様性を体現しているとも言える。
『日本の死角』という社会派サスペンスめいたタイトルを持つ本書のコンセプトは、巻頭言「はじめに」において明確に提示される。
私たちは、間違った常識や先入観のもとで問題を思考し、答えを導き出してしまうことがある。そうだとしたら、時に答えを出すよりも、私たちが見えなかった・見てこなかった「日本の死角」とも言える論点や問いを掘り下げ、再考することこそが重要である。
我々が「当たり前」の「常識」だと思い込んでいること……それらはもしかしたら古くさくて閉鎖的な刷り込み、あるいは忖度重視の社会的風土が育んだ固定観念なのかもしれない。現代社会においては多様性への柔軟な対応力、厳格なモラル、デリケートな判断や関係性が必要とされる。その足かせとなるような考え方、ものの見方は、致命傷の原因になりかねない。まずは思考の土台から改めて検証したほうがいいのではないかという出発点に始まり、より時代に見合った提言やアイデアを発信していくための「考える力の開発」に、本書は読者を導いていく。まさに現代に必要な前向きな1冊と言えよう。
「『日本人は集団主義』という幻想」「いまの若者たちにとって『個性的』とは否定の言葉である」「ご飯はこうして『悪魔』になった~大ブーム『糖質制限』を考える」などなど、各章のタイトルも刺激的である。なかには、掲載時から時間が経って状況が変わり、大きく加筆された記事もある。それでも各論考が訴えかけるテーマはまったく色褪せておらず、深みを増した記事もある。
たとえば、2018年10月初出の「日本のエリート学生が『中国の論理』に染まっていたことへの危機感」という記事。東京大学大学院教授・阿古智子氏が、学生団体の討論会にコメンテーターとして招かれ、日中混合チームの研究発表に疑問を抱くという内容である。本書掲載のバージョンには、その後日談が加筆されている。
2023年2月、コロナ禍による長い中断を経て、日中学生の勉強会が再び開催される。その場所というのが、中央政府による言論統制が厳しくなる一方の香港だった。思わずダークな展開を想像してしまうが、「中国から教員や党支部関係者が同行せず、学生たちは比較的自由に話せた」という状況が説明され、その締めくくりには思いがけず感動させられてしまった。
そして、日本の学生の一人は報告書にこう記している。「私たちは“やはりデモクラシーは重要だ”という共通認識に達した」。
思い込みを揺るがす、という意味で特に衝撃的だったのは、大前治弁護士による「自然災害大国の避難が『体育館生活』であることへの大きな違和感」という章。これほど多くの自然災害が発生する日本において、被災者の避難場所として我々が思い浮かべるのは大抵、地元の体育館で大勢の人が着の身着のままで寝起きするイメージである。確かに、考えてみれば子どものころに見たニュース映像から、一向にそのイメージは改善されていない。
この章では、公費でのホテル泊や避難施設の充実を国が率先して行うイタリアなどの諸外国と比較して、いかに日本の災害避難対策が立ち遅れているかを明らかにしつつ、そもそも政府に「人権への理解」が著しく欠けているという根本的大問題まで突き止める。
良好な環境の避難所を設置して避難者の心身の健康を確保することは、国家が履行するべき義務である。劣悪な避難所をあてがうことは義務の不履行として批判されなければならない。
今の政府は、どう考えているだろうか。
(中略)
内閣府が作成した避難所リーフレットをみても、国民が権利を有するという視点はなく、むしろ国民は避難所でルールに従いなさいと言わんばかりの記載に驚く。
このように、社会において我々の無意識レベルに染みついた「そういうものだから」という固定観念がいかに多いか、問題を先送りにしてきたかを突きつけられる論考も多い(最近で言えば、ジャニーズ問題にも通じるところがあるだろう)。問題の根本を見つめ、改めて対策を考え、提言を示す文章には、大いに頷くところもある。とはいえ、すべての記事内容をただ唯々諾々と受け入れるだけでは、結局「刷り込みの上書き」をするだけになりかねない。あくまで読者に自分自身で考えることを促すのが本書の目的だろう。おそらくそういう編集意図で、即座には首肯しづらいような記事もあえて収録されている。
たとえば、『性暴力の理解と治療教育』という著書もある臨床心理士・藤岡淳子氏の「性暴力加害者と被害者が直接顔を合わせた瞬間…一体どうなるのか」という章。論考というよりはルポのようなかたちで、実験的シンポジウムの模様を伝えている。かなりスリリングで物議を醸しそうな内容だが、この試みを実現するまでに4年を費やしたといい、無神経さとは正反対の注意深さをもって行われたことは読めばわかる(それでも受け入れられない読者もいるだろう)。
また、アフリカ音楽・文化を研究する文化人類学者・鈴木裕之氏による「『差別』とは何か? アフリカ人と結婚した日本人の私がいま考えること」という章も、筆者の実体験を踏まえて社会に遍在・常態化した差別を論じる、一筋縄ではいかない内容である。かなりの確率で読者に複雑な思いを抱かせるという意味で、これまた問題作といえよう。
本書中、最も歯切れ良く、明晰で力強い文章は、モデル・文筆家のシャラ ラジマ氏による「私が『美しい』と思われる時代は来るのか? “褐色肌、金髪、青い眼”のモデルが問う」である。バングラデシュのルーツを持ち、東京で育った彼女は、その人種的にボーダレスな容姿を用いて「人種の美の優劣、その流行から解放されるような未来のため」に活動しているという。その活動理念は進歩的で、理知的で、はっきり前を向いている。
イメージを表現することは私にとって楽なことではなかった。このような自分にとって不得意なことをしていくのもそうだし、そもそも私自体がコンセプトであるため、そのための技術を学んで、コンセプトを変えないラインで追いつける限りの努力をした。
その過程で必然的に魅力についてよく考えるようになった。私はそのままでは美しくなかったから。より正確には、そのままで美しいかどうかを誰も図る基準を持っていなかったため、私が美しいとされる世界をまだ知らなかったからだ。これからそうした世界がやってくると信じて動いた。
変わりゆく社会の先端を突き進む当事者による文章は、まさに本書の掉尾を飾るのに相応しい。時代に即した意識の変化や成熟、そして魅力的な書き手との出会いをもたらす、刺激的な1冊である。
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ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。