ケンカ市長大いに語る
泉房穂という名前にピンとこなくても、明石市の暴言市長といえば「あぁ、あの人」と思い当たるだろう。本書は「前」市長となった彼が、いかにして議会、政党、役所、宗教・業界団体、マスコミと闘ったかを語ったものだ。政治ジャンルの本ではあるが、その内容は「いかにしてケンカに勝ってきたか」である。面白くないわけがない。そして、この本を面白くしているもうひとつの要素が、泉房穂が典型的な播州人であるという点だ。
播州とは兵庫県の南部、赤穂~姫路~明石の瀬戸内海沿岸と、その内陸部。そこに住む播州人の一般的イメージは、言葉が悪く気が荒い。かくいう私もそうで、播州人をよく見知っているが故に言うのだが、播州人は人との距離感の保ち方が雑なのだ。もちろんすべての播州人がそうではないと力説したいが、「泉房穂」的な口の悪いオジサンはいる。確実にいる。
「人から嫌われたくない」なんて思ったことはない。
元々、「四面楚歌」とか「絶体絶命」という言葉が好き
本人は本当にそう思っているのだろうが、あえてそういう悪びれたことを言うところ。
言い争いになると、突然言葉にドライブがかかるところ。
ザッツ播州人! 道路の拡幅工事に伴うビルの立ち退き交渉をめぐり、担当職員に投げつけた「火つけてこい」という暴言も、さもありなん(もちろんこの暴言は明らかなパワハラで、許されざることだ)。ただ常日頃、政治家の耳触りの良い発言、玉虫色のどうとでも取れる発言をテレビで見聞きしていると、地方政治のありのままを、遠慮なく自分の言葉で話す播州人のオジサンは極めて新鮮だろう。まったく受け付けないという人もいるだろうが、親近感を持つ人も多いのではないか。現在、橋下徹やひろゆき、成田悠輔、堀江貴文などの対談相手に引っ張りだこなのもうなずける。
まずは泉房穂のプロフィール。そこからして「えー、これは本宮ひろしの漫画のキャラですか?」と思うほど、波瀾万丈だ。
明石市の西部にある小さな漁村の貧しい家庭に生まれ、「金持ちとは喧嘩するな」という親に育てられる。障害を持った弟がいて、障害者を弾こうとする学校に違和感を持ち、それはやがて「冷たい社会を優しい社会に変えたい」という思いに変わる。そして小学5年生にして、明石市長になる目標を持ったという。
私は故郷・明石のことを心から憎み、心から愛してるんです。誰よりも明石について知っているからこそ、まだ消えない理不尽に対して、誰よりも強い憎しみを抱いている。
その後、東大で学生運動に参加しながら、ポーランドのレフ・ワレサが率いる民主化運動や、チェコのヴァーツラフ・ハヴェルらによる民主化革命に触れて「民衆の力」を知る。大学を卒業してNHKに就職したのち、テレビ朝日(『朝まで生テレビ』の番組スタッフだった)へ。さらに国会議員や官僚腐敗を追求し、のちに右翼団体代表に刺殺されることになる石井紘基衆議院議員の秘書を経て弁護士となり、明石で法律事務所を開設。そこからさらに国会議員を経て2011年の明石市市長選にて、2位とわずか69票差という僅差で明石市長となる。なんだ、この面白すぎる経歴!
明石で試みられた政治の進化
「政治は結果」というのが私の政治哲学です。マスコミの取材も色々受けますけど、私としては一番わかってくれてるのは、やっぱり市民。なぜかというと、市民は実際に明石市で暮らしてるから。生活してるからこそ、リアリティを持って政治を見ているし、明石市が実際に変わったことを体感している。
その言葉どおり、泉房穂は政党や団体の支援を受けていないにもかかわらず、圧倒的ともいえる市民の支持を得た。それは「誰ひとり取り残さないやさしいまちづくり」という、いささか美し過ぎる理念に、さまざまな条例や施策でしっかり肉付けを行ったからだ。その支持があったからこそ、理不尽で不合理な慣習がまかり通る議会や、口利きを求める議員とケンカができた。しかし市民の支持があったとしても、どうしてそこまで突っ張っていられたのか? それは泉房穂が「市長とはいかなるものか」を語る部分で腑(ふ)に落ちた。
なぜ私が市長になる道を選んだかというと、市民から直接選ばれる自治体の首長は、かなりの権限がみとめられているからです。わかりやすくいうと、総理大臣ではなく、むしろ大統領に近い。与えられた権限を市長が正しく行使することで、ドラスティックに市政を変え、市民に幸せをもたらすことができる。
「日本は議院内閣制である。地方もまたそうである」ぐらいにふんわり理解している私は、「市長は大統領に近い」という言葉に驚いた。泉房穂は、決して議会を軽視していたわけではないとしながらも、『社会契約論』のルソーを引き、政府の作り方やあり方にはいろいろな可能性があり、議会はその中の一つの知恵でしかないと語る。ロックの間接民主主義、モンテスキューの三権分立もまた絶対に正しいわけではなく、大きな失敗を避けるための一つの仮説でしかないと。政治は本来、市民生活に奉仕することを最優先とし、定型はなく、繰り返されるトライ&エラーのもとで進化するものであるはずだ。市長としての12年間、泉房穂は暴言市長と言われながら、明石で政治の進化を試みていたのではないか?
市長は大統領に近い。その考え方だけを切り取ると、権力の暴走を懸念する声が上がっても不思議ではないと思う(それについても、泉房穂はきっちり言及している)。地方政治という点では、大阪維新の会と比較したくもなる。この本を読んで、そうした視点を持つのは自然だし、非常に健全だ。そう、泉房穂という政治家には、「有権者としてひとこと言わせてくれ」と思わせる、なにか“挑発力”とでもいうべきものがあるのだ。それは独自のビジョンも語る言葉も持たず、政党の看板を背負って選挙に勝った/負けたを繰り返す政治家には望むべくもない。「ワシらの街の泉がぁ!」と応援できた明石市民は、幸せだったのではないか? 明石市民をうらやましく思った。
レビュアー
関西出身、映画・漫画・小説から投資・不動産・テック系まで、なんでも対応するライター兼、編集者。座右の銘は「終わらない仕事はない」。