2023年、歴史的瞬間を目にする?
現在はタイトル数が棋士の強さを示す尺度になっている。その意味では「名人は数あるタイトルの一つ」という考え方も成り立つ。
ただ、私の中では、将棋界の第一人者、誰が見てもナンバーワンと言える棋士の条件は、名人か竜王の少なくともどちらかを持ち、ほかに三つ以上のタイトルを持っていることである。もちろん、名人、竜王の両方を持っていれば盤石である。
2023年2月現在、藤井聡太は竜王、王位、叡王、王将、棋聖のタイトルホルダーで、著者・谷川浩司十七世名人のいうナンバーワンの条件をすでに満たしている。藤井聡太の強さが破格であることは、将棋ファンでなくとも知るところだし、最近ではタイトル防衛戦である王将戦で、タイトル獲得通算100期という前人未到の記録に挑戦する羽生善治九段と接戦を繰り広げて話題となっている。勝者がコスプレをしてスポーツニッポンの紙面を飾っているのを見た人も多いはずだ。
さらに藤井聡太をめぐる状況を整理しておく。
・藤井聡太が、現在持っていないタイトルは名人、棋王、王座の3タイトル。
・名人戦挑戦者を決めるA級順位戦で、上位に名を連ねている。
・棋王戦で渡辺明二冠(名人・棋王)に挑み新タイトル奪取を目指している。
勝負事に「たられば」は意味をなさないが、それを楽しむのは自由だと許してもらえば
・谷川浩司十七世名人が達成した史上最年少名人記録を、ワンチャンスとなる今年、塗り替えるかもしれない。
・羽生善治九段のタイトル獲得通算100期を阻止し、同九段が25歳で果たした将棋全タイトル制覇(当時は7冠)を、今秋果たすかもしれない(現在は8冠)。
それが「藤井聡太が勝ち続けたら」という都合の良い設定だったとしても、そんな歴史的瞬間を目にするかもしれないと想像するだけで心がザワつく。2023年が伝説の年として歴史に刻まれる予感。それを一言で言い表すとするならば「エモい」だ。
こんな素人の「たられば」について、谷川十七世名人はこう解説する。
史上最年少名人にワンチャンスで挑む藤井さんが、そのことを重圧に感じる姿はまったく想像できない。
初タイトル獲得の時も、初防衛戦の時も、これまでの重要な対局で彼がプレッシャーのため実力を出せなかったり、動揺したりすることはなかった。むしろ一度、そうした姿を見てみたいくらいである。
どんなに記録がかかっていても、彼にとっては「将棋を指す」「対局に臨む」ということには変わりなく、いつものように最善手を追い求めるのだろう。
タイトル戦が一つ増えれば、現実的にはスケジュールはよりタイトになる。七と八には想像を超える差がある。
タイトル戦の番勝負*になれば、藤井さんが勝つ可能性はぐんと高くなる。逆に言えば、挑戦者に至るまでの本線、特にトーナメント戦がより大きな壁になる。というのも、"一発勝負"は常に下位の棋士が勝つ可能性があるからだ。
*番勝負=複数回の対局で勝者を決めること。
つまり藤井聡太は、(挑戦者になれば)番勝負となる名人戦では有利だが、トーナメントで挑戦者を決める王座戦では、その強さを十分に発揮できないのではないか、ということだ。藤井聡太をもってしても厳しい状況なのだと知ると、より歴史的瞬間を見てみたいと思ってしまうのは欲深いだろうか。
最善手ではなく、二番手、三番手
藤井聡太の強さの秘密について谷川十七世名人は、数多くの激闘を重ねていることが大きいという。
直感でまずA、B、C三つの手に絞ったとする。さらに考えた結果、Aという手を指した。指した瞬間、そのAという手は相手にはもちろん、他の棋士にも共通の情報となる、
しかし、有力候補だったが指さなかったB、Cの手は、考えたその棋士の頭の中だけに残ることになる。それはその人だけの財産である。その財産が、実は大きいのではないか。
藤井聡太の強さの秘密を、「AIを利用して強くなった」と思っている人は多い。しかし谷川十七世名人は、「彼は自分の力で考え抜いて強くなった」という。ただ、その「考え抜いて」が、常人のそれとは別次元。しかも、タイトルがかかった戦いでトップ棋士を相手にじっくり考え抜くことを重ねて、棋力をつけている。戦いながら強くなる藤井聡太が、どこまで強くなるのか? それはもう「無限に」ということになる。
本書が面白いのはここからだ。最強の棋士・藤井聡太をいかに倒すか? トップ棋士たちが考えた「打倒藤井」戦略を、谷川十七世名人が実にわかりやすく解説してくれる。
2022年の王位戦。豊島将之九段は、序盤からほとんど持ち時間を使わず猛攻を仕掛けた。対する藤井聡太は長考を挟みつつ最善手を指し続ける。形勢は五分五分のまま1日目が終わるが、2日目の終盤で持ち時間に大差がつき、圧倒的といわれる藤井聡太の終盤力を封じ込めた。相手の持ち時間を削らせて終盤勝負に臨む戦略だ。
また、渡辺明名人は、違った戦略をとっている。
渡辺さんの場合は、AIが示す最善手ではなく、あえて二番手、三番手の手を深く研究して、相手があまり想定していない形に引きずり込んでいくという戦い方だ。
最善手は相手も重点的に研究している可能性が高い。しかし、二番手、三番手の手となると、やはり研究が薄くなる。そこに勝機を見出す戦略である。
二番手、三番手と聞くと、自ら不利な手を選んでいるように思えるが、序盤中盤であればAIの評価値でいくと1%下がるかどうかという微妙な差。その後の展開もしっかり調べておけば、十分にカバーできる。つまりは、とことん流れを研究しつくして、そこに勝機を見出す戦略だ。
さらには振り飛車や雁木といった戦法の可能性など、事細かに解説される。そこから見えるのは「打倒藤井」戦略自体の進化と、それに対応していく藤井聡太の進化だ。将棋界は今や、過去に例をみない勢いで進化を遂げており、知れば知るほど面白い状況になっている。
AIによる研究で序盤の精度が上がり、序盤で時間を使わないようになった結果、中終盤で時間をつぎ込むことが可能になり、必然的に精度も高くなる。
「精度が上がっている」ということは、それだけ将棋が面白くなっていることを意味する。指し手を読む量も以前よりは格段に増え、プロ棋士でも正解が見出せない難解な中終盤が延々と続く。結果的に名局、熱戦が生まれる。
本書を読むと「藤井聡太は名人位につくのか」「将棋全タイトル制覇するのか」といった興味よりも、「藤井聡太がもたらす新しい将棋のカタチ」に興味が移るだろう。そもそも藤井聡太本人が、タイトル獲得や記録にあまりとらわれていない。
「強くならなければ見えない景色が確実にあると思う。対局に臨むうえでは数字とか記録よりも、自分が強くなることでいままでと違う景色を見ることができたらなと思います」
そんな強者が見る景色はどんなものなのか? それを少しでも理解するため、本書は最高の道標になってくれるはずだ。
レビュアー
関西出身、映画・漫画・小説から投資・不動産・テック系まで、なんでも対応するライター兼、編集者。座右の銘は「終わらない仕事はない」。