新卒で入社した書店のバッグヤードには、たまに手書きの「短歌」が貼りだされていた。最初は誰が書いているのか、なぜ貼られているのかもわからなかった。だが社内になじんでくると、それは自分より少し上の先輩が趣味で詠み、勝手に貼りだしていたものだと知った。「会社」という場所に似つかわしくないその自由さに驚きつつも、日々の業務にまつわる作品の内容は、新人の私でも深く頷けるようなものばかり。だから新たな発表を楽しみにしていたのだが、ある日決まった先輩の異動とともに、その掲示は終わりを迎えた。
そんな記憶がよみがえってきたのは、本書を手にとったためだろう。2013年から2019年まで毎年開催されていたイベント、「川柳 in the ラボ」。大学や企業の現役研究者が、研究室で過ごす自身の日常を川柳にしたため、応募する催しだという。年々、多くの句が寄せられるようになり、7年間の応募総数はなんと6815句だというからびっくり! 集大成ともいえる本書では、その中から厳選された作品の数々が掲載されている。
冒頭では「ライフサイエンス研究の『七つ道具』」として、研究者の日々に欠かせない仕事道具が紹介されている。理系のあれこれに疎い私でも、こうして図と共に紹介されると理解しやすくてありがたい。ちなみにここで登場する「PCR装置」、新型コロナのニュースで知るまでは縁遠い機器だったものの、今となっては世界的に知られる道具の一つになっている。でも「七つ道具」とまで言われるものなら、研究者の間では当たり前の道具だったのだなと、その違いにあらためて感じ入る。
この後に続く本編は、六つのカテゴリーへと分けられている。先陣を切るのは、第一章「研究者あるある」編。内容の説明はこんなふうにつづられていた。
一日の大半を同じ研究室で過ごし、苦楽を共にするラボメンバー。日常に研究用語が飛び交い、特殊な実験器具に囲まれて過ごす中で、研究者独特の世界ができてきます。研究者であれば、ニヤッと口元がほころぶ「あるある」川柳をあなたも鑑賞してみませんか。
研究用語とはどんな感じだろう?と思ってページをめくる。「10分の 静置の合間 ランチ食う」。たとえばこの句では「静置」なる単語が使われていた。実験の様子や雰囲気はイラストから伝わってくるものの、なるほど、言葉の正確な意味は知識がないと掴めない。これが「研究用語」……!
だが、心配は不要だった。どのページにも、単語や状況に対する丁寧な注釈が付けられており、これを読むと意味がわかるだけでなく、理系研究者の生活や習慣、考え方にまで触れることができる。実用的かつ、小話的なネタも多く、いずれも知らないことばかりで面白く読めてしまった。
個人的なおすすめは、第二章「実験大好き編」の冒頭を飾ったこちらの句。「あぁ、その日? 俺はいいけど ハエがダメ」
注釈には
(前略)餌やりや実験のタイミングは、ハエの生活リズムに合わせておこなうので、自分のスケジュールはあと回し。ハエの都合を優先させることもしばしばあるのです。
とあり、涙なくして読むことができない。デートよりもハエをとるとは……!
だが、ふと気がついた。自分の書店員時代も、新刊の入荷数や発売日を優先していたことを。そしておそらく社会人ならば、みなさん何か心当たりが浮かぶであろうことにも。自分の予定だけを優先して済む仕事はそれほど多くない。そう考えると研究者の生活も、その仕事相手がたまたま生物だったり、ゴールが見えない研究だったりするだけで、味わう苦労は一般の社会人と変わらないのかもしれない。
そう思って読み返すとどの句からも詠み手の声が、また違って聞こえてきた。それは苦労や反省、自虐や自嘲だけでなく、思いがけない発見の喜びや、振り回されることのおかしみ、予想外の嬉しさにあふれた日々だ。どれだけつらそうな状況でも、どこか不思議と楽しさが感じられ、研究者同士の仲間力もそこかしこに感じられる。同じ社会人として本書の川柳に惹きつけられるのは、そういった魅力にあるのだろう。
最後に、こちらの句を紹介したい。
「お勧めは しないが飽きない お仕事です」
飽きずに同じことを続けるということは、とても難しい。ましてやそれが仕事であればなおのこと。こんな句が詠める仕事に就けるなんて、うらやましさすら感じてしまった。これから研究者を志望する人にはもちろん、働くすべての人に、ぱらぱらとめくって好きなページから読んでほしい。きっと、頷ける一句に出会えるだろうから。
レビュアー
元書店員。在職中より、マンガ大賞の設立・運営を行ってきた。現在は女性漫画家(クリエイター)のマネジメント会社である、(株)スピカワークスの広報として働いている。