物理の本である。この本はかなり有名な本の新板で、2001年に発行した旧版は、12年間で13刷を重ねた名著だ。
初版から一貫している主旨は、「誰でも物理が好きになれる。物理をちょっとでも学ぶと日常生活、さらには人生がとても楽しく豊かになる」ということらしい。
わたしとしては正直、物理にはそうとうに抵抗がある。物理に関して覚えていることは、高校時代の物理教師が「トミー」というあだ名のとぼけたおっさんだったことだけだ。しかも、その大酒飲みのトミーの授業にまったくついていけず、それが現在の物理への抵抗に繋がっているとさえ言える。
いやこの場合、トミーは悪くはない。酒の飲み過ぎでとうに鬼籍に入ったようだが、味のあるおっさんでわたしは好きだったし、あくまでもわたしの、物理をわかろうともしないし興味を持とうともしない、そんな姿勢に原因があった。
物理はおもしろい。いや、少なくともおもしろそうだ。そう思わせてくれるのがこの本である。
光のこと、電気のこと、エネルギーのこと、時間と空間のこと。物理とは「物のことわり」であるけれど、また同時にファンタジーだ。宇宙、タイムマシン、超常現象。物理を通して、その先に何かが見えてくる、わかろうとする興味の範囲が広がる。
それにしても物理学者っていうのは、つくづくロマンチストだなと思う。
文中には望遠鏡で見る「アンドロメダ星雲」の写真が掲載されている。アンドロメダ星雲は、地球から250万光年のかなたにある。
「光年」は、天文学的な距離を扱うときに使われる長さの単位で、光が真空中を1年間に進む距離が「1光年」である。(中略)写真は250万光年離れたアンドロメダ星雲の写真であり、それは250万光年前にアンドロメダ星雲を発した光の像ということだ。つまり、写真は250年前のアンドロメダ星雲の姿を示すものなのである。私たちはタイム・マシンの力を借りずに、250万光年前の過去の姿を見ているのだ!
なんともいい話ではないか。トミー(物理教師)も、アンドロメダ星雲を思いながら1杯やっていたのだろうか。
「よくわからない」。多くの物理学者は、光の本質、時間、空間の概念などに対して、ちゃんとこのことを認めている。このわからないことを認める姿勢が、物理をコク深くおもしろいものにしているのだと思う。へんなたとえだが、死をちゃんと理解することにとって、人の生が生き生きとしてくる、そんな感じ。
わたしも文筆業をやっている手前、わからないことや目に見えないことが大好きだし、理解できないことや可視化できないことを描き出すために、この職業を選んでいる。
著者は、本書のおわりに、自身が敬愛する寺田寅彦の言葉を引用する。
頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。
ますます、独身であったわたしの物理教師、「トミー」のことを思わずにはいられない。
自然を恋人にする。恋人にすれば、その人の持つ何から何まで知りたくなるのは、あたりまえのことだ。
物理の本のレビューにしては、いささか「文学的」過ぎた。だが、魅力たっぷりの「物理のおはなし(授業)」は、本書にじゅうぶんに用意されている。
文系だ、理系だと人はなんとなく分けたがるけど、それは生きていく上での両輪となる考え方だし、物のことわりや見えないものに「接近」した結果に、文系も理系もない。
物理という「ジャンル」が、まるでジャズやブルースのように、身体や脳に心地よく響き、自分を活性化させ、癒やしてくれる。そんなことを知れただけで、儲けもんだ。
物理の本を眺めながら酒を飲む。たまにはそんな晩もいい。
レビュアー
コラムニスト。1963年生。横浜市出身。『POPEYE』『BRUTUS』誌でエディターを務めた後、独立。フリー編集者として、雑誌の創刊や書籍の編集に関わる。現在は、新聞、雑誌等に、昭和の風俗や観光に関するコラムを寄稿している。主な著書に『ロックンロール・ダイエット』(中央公論新社、扶桑社文庫)、『車輪の上』(枻出版)、『大物講座』(講談社)など。座右の銘は「諸行無常」。筋トレとホッピーと瞑想ヨガの日々。全国スナック名称研究会主宰。日本民俗学会会員。