4
「来てくださって、ありがとうございます」
米日共同の学術調査隊を率いるランシング教授は、敬礼するベイカー大尉以下の隊員たちを前に言った。ブリーフィングでは50過ぎだと聞いていたが、豊かなブロンドの髪と、彫像のように整った顔立ちをしている。女子学生に人気のあるタイプだな、とデフォーは思った。それが僻みだとは自覚している。
残されていたガイドロープがあるとはいえ、互いの身体を結び、クレバスを踏み抜かないよう注意しつつ氷河を横断した先。山塊の狭い鞍部を抜けてたどり着いたその場所が、調査隊のベースキャンプだった。キャンプの先には盆地状の地形が広がり、全周を切り立った峰々に囲まれている。
太陽の姿は、空のどこにもない。黒く影になった山の向こうにあるのだろう。光の差し込まぬ薄暗い盆地の奥は、両側から回り込む山塊に閉ざされ、入ってきた鞍部の他に出口はないように見えた。
「これで安心です。まだ実害はありませんが、イスラム過激派を警戒するため、調査がなかなか進まず困っていたのです」ランシング教授は言った。
「つい先ほど、我々もそれらしき集団を目撃しました」
ベイカーは、全滅したパキスタン軍のことや、自分たちが攻撃を受けたということは話さなかった。そこまで伝える必要はないということか。
それにしても、これほど危険な場所からなぜ逃げ出さないのだろう?
デフォーと同じ疑問を抱いたらしいベイカーが、教授に尋ねた。
「しかし、ここは危険です。撤収したほうがよいのでは?」
「そうもいきません。非常に重要な調査なのです」
「いったい、何を調べているのですか」
「……単なる、地質調査ですよ」
「そうまでして調べなければいけないとは、何か重要なものでも埋まっているのですか」
ベイカーが重ねて尋ねた時、教授の表情がわずかに強ばるのが見えた。
「いえ……。そういうわけでもありません。このあたりはアルプス・ヒマラヤ造山帯の一部で……これ以上は、専門的な説明になりますが?」
「ああ、いや、結構です」
自分で聞いておきながら、面倒になったのかもしれない。ベイカーは早々に話を切り上げた。
「では、我々は過激派の捜索に向かいます。くれぐれも気をつけてください」
「ええ、わかりました。お願いです、早く彼らを排除してください」
デフォーは、一瞬耳を疑った。科学者の口から、【排除】などという台詞を聞くとは思わなかった。いくら研究のためとはいえ、そこまで望むものだろうか──?
既に陽は傾き、東の空には再び星の光が見え始めていた。
ベースキャンプから出発したチーム9の隊員たちは、盆地と氷河を隔てる尾根の鞍部を過ぎ、小休止に入っていた。
もう少し進み、守備に適した地形が見つかり次第、今日は野営することになるだろう。雪洞が掘れるくらい雪が積もっていればかえって暖かくなり助かるのだが、なんとも中途半端な積雪量だ。
じっとしているとすぐに圧倒的な冷気で身体が震えてくる。デフォーは、立ったまま足踏みを続けていた。隣ではロバーツが座り込んで、パキスタン兵のパソコンのハッキングに相変わらず精を出している。集中のあまり、寒さも気にならない様子だ。
ぽつぽつと、盛り上がらない会話も聞こえなくなったところで、デフォーはベースキャンプからずっと胸に抱えていた不信感を口にした。
「あの、ランシング教授って人は、何かを隠していると思わないか」
怪訝そうな顔が一斉に向けられる。
「そうか……?」「思い過ごしじゃないのか」
ほとんどの者からは、否定的な返事が返ってきたが、1人だけ同意の声を上げたのは、意外にもカトリだった。
「私も、そう思います。そもそも科学者が、いくら相手が研究に邪魔とはいえ、『排除してくれ』などと言うでしょうか」
カトリも、同じことが気になっていたようだ。
だが、皆はまだ首を傾げている。カトリの意見であることも、皆の反応を鈍らせている原因かもしれない。デフォーが、自分でも思いがけずカトリを擁護する台詞を口にしようとした時、それまで会話を無視してパソコンへ向かっていたロバーツがつまらなそうに呟いた。
「あながち、そいつらの言うことも間違っちゃいないみたいだぜ」
ロバーツが、パソコンを手に立ち上がる。その顔には、見たことのない真面目な表情が浮かんでいた。「ようやく、パスワードを解読できた」
「何だ、役に立ったじゃないか」ウェストが、ロバーツの胸、防寒パーカーの下の記章のあるあたりを指さす。
ロバーツはにやりと笑い返してから、また表情を引き締めなおし、「どうやら俺たちは、ずいぶん軽く見られてたらしい」と言った。
斉藤 詠一(さいとう えいいち)
1973年東京都生まれ。千葉大学理学部物理学科卒業。現在神奈川県在住。2018年『到達不能極』で第64回江戸川乱歩賞を受賞。