「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」という1文を記したのは藤原定家でした。「紅旗」とは天皇の旗、もしくは天皇の威を借りた平家の旗ということですが、この文には源平争乱の時代を生き、その政治(=争乱)に拮抗するように歌の道を突き進んだ定家の真情がこめられています。
この定家から12代目にあたる子孫がこの本で論及された藤原惺窩です。定家の志を継いだかのように「文」の重要さを追究して「文治主義」を唱えたのが藤原惺窩(せいか)でした。
「近世儒学の祖」といわれる藤原惺窩ですが、出発点は相国寺で禅僧として研鑽を積むことでした。戦国時代に禅僧は特別な位置を占めていました。大名家に抱えられた禅僧は経学の師であるだけでなく、時に軍師であり、時に外交官の役割をはたしていました。有名なところでは、今川家の太原雪斎や毛利家の安国寺恵瓊などが挙げられます。
禅寺で惺窩は生涯の目標に出会います。それが「漢学、漢文学」の世界に描かれた儒教の「聖賢の道」でした。さらに彼は禅からもある精神の形を学んだように思えます。それは「自由の精神」だったのではないでしょうか。
座禅もせず、修行もしなくていいとは、もちろん極端ではあるが、禅宗にはそうした規律無視、心の自由がもっと大切である、という自由の精神がある。
藤原惺窩は「日本朱子学の創始者」ともみられていますが、著者によればこのイメージこそが弟子の林羅山によって作り上げられたものであり、惺窩は「朱子学の専横」を認めていません。それも惺窩に「心の自由」があったからでしょう。
徳川時代の朱子学の開祖といわれる藤原惺窩が、朱子学を絶対視しなかったことが、徳川時代の思想全体の異端にたいする寛容の態度を生み出したのである。
さて、「聖賢の道」を追究する惺窩にとって中国、朝鮮は理想の国でした。
惺窩が、朝鮮・中国を文運の栄える平和な国と見る見方は、もちろん中国・朝鮮の文学、漢詩文を読んで得られたものだ。また京都の禅宗寺院で語り継がれている、絶海中津や桂庵玄樹など、みんが平和な時期に明を旅した人たちの伝説にも、明への「旅の誘い」をかき立てられたであろう。しかし、「今」の明や朝鮮が、惺窩の憧れるような文明の国であるという実感は、疑いもなく、天正十八年の朝鮮使節との、親しい、心の通う、文字を通じた交流によって一気に火をつけられたのである。
惺窩は中国、朝鮮への留学を強く願いました。しかしその願いはかなえられることはありません。それどころか豊臣秀吉による朝鮮出兵、侵略戦争が始まったのです。
文の先進国、朝鮮の学者、文人と知り合いになり、使節の帰還に同行して、その国に留学したいとまで思ったのに、その国と自分の国は今戦争を始めようとしている。国中が反乱で乱れるかもしれないこの乱世に、陣太鼓ばかりが盛んに鳴り響く。こんな乱れた国、武張った国にもう住みたくない。
まさしく「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」ですが、それに止まらず惺窩は激しい現実(戦争)批判を繰り広げます。
戦場のいわゆる雑兵は、本来、農民である。十五万人が動員されて朝鮮に渡ったその雑兵、足軽たちの大部分は、平時には耕作を行う兵農未分離の人々であり、朝鮮で戦死、病死、凍死した下層の兵は民衆なのである。また働き手を奪われた日本の農地は戦争によって荒廃した。朝鮮の戦争を日本の民衆の一人として実見、実感した惺窩は、戦争の被害者は両国の民衆であるという結論に達していたのだ。
さらに激しい論を惺窩は綴っています。
朝鮮での戦争が日本の民衆を「憔悴」させていること、戦争の被害者は両国の民衆であることをいっている。莫大な死者、拉致者、戦争に起因する餓死者、病死者を出した朝鮮は、日本にその罪を問う権利がある。(略)朝鮮は戦争の被害者として、日本に復仇を行う権利があるという。ただし、それは日本の民衆を被害者、犠牲者として行われる戦争であってはならない。
といっても惺窩は一方的に明、朝鮮を理想化・美化していたわけではありません。「朝鮮での明軍の戦いぶり、それからどこか怪しげな外交交渉ぶりを見て、いったい今の明は本当に聖賢の道を実践している国なのか、という疑問を抱いた」という文章(草稿)が残されているそうです。
惺窩に理想と現実という問題をもたらした文禄・慶長の役は他方では、多くの朝鮮本の儒教古典を日本にもたらすことになりました。惺窩は己の理想を求めて、友人となった姜沆とともに四書(=儒教の聖典)に記された先賢の教えを研究し続けました。
惺窩は四書のうち『孟子』を好んでいましたが、この『孟子』という書はかつて危険思想の書と目されていました。それを象徴しているのか「『孟子』を乗せた船は、日本に着く前に沈没する」ともいわれていました。『孟子』のどこが危険思想と思われたのでしょうか。
孟子は、王朝の交代を天命を受けた革命として肯定した。孟子には民本主義といっていい、民衆のための政治という理念が一方にある。暴政に苦しむ民を救うのであれば、権力者の武力討伐は肯定される。仁徳の政治を行わず、民を苛斂誅求する桀や紂のような暴君は匹夫(凡人)であって「君」ではない。
惺窩は『孟子』の弟子として徹底した「仁義の政治」である「王道」を唱えました。そして惺窩は『孟子』の中に「民のための政治」や「文治主義」に通じる「平和主義」を見出したのでしょう。これが惺窩の「理想」でした。
惺窩から見た日本は「乱邦(乱世の国)」であり、それを武力統一した徳川家康は、平和への道を開いたとはいえ、「武力制覇=覇道」がもたらした平和にしかすぎません。惺窩が理想とした、聖賢の治ではありません。「文治」ではなく「武治」というべきものです。徳川家康からの招致があっても惺窩が仕えることを是としなかったのは、徳川の平和が「覇者の平和」であり、徳を以て天下を治める「王者の平和」ではなかったからでした。
この本は藤原惺窩が終生いだいていた夢と希望を追究したものであるとともに、同じ戦乱の世を生き、惺窩とは異なる道とはいえ「平和」を求めた徳川家康の軌跡と両者の遭遇・すれ違いを描いています。鎖国前夜、海外に大きく開かれていた日本、1人は「聖賢の道」を求め海外の知を夢見、また1人は「覇者の道」を求めて海外の知(技術)を求めました。交わることのないような2人ですが、著者はこう記しています。
むしろ、江戸時代の幕藩体制は、家康の権謀、覇道政治と藤原惺窩の文治主義、理想主義の合体だったと評することさえできる。藤原惺窩の平和主義は、たとえば徳川慶喜の「大政奉還」に継承されたと考えることも可能である。
「理想」と「現実」の相剋、そう読める1冊です。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の2人です。
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