エイブラハム・リンカンからドナルド・トランプまで(トランプは特別付録になってますが)総勢10名の大統領による20の演説が収められたこの本はいくつもの読み方ができると思います。
左側に英語原文、右側に翻訳を載せた対訳本として英語の学習をする。重要な単語には「語注」が付せられています。
より深い読み方は井上さんの解説で収録された演説の背景にあった(国際)事情を知ることです。冒頭のエイブラハム・リンカンの「ゲティスバーグ演説」の背景には、アメリカ史上空前の犠牲者を出し南北戦争(市民戦争)がありました。62万に及ぶ犠牲者の数は「第2次世界大戦の約40万人、ベトナム戦争約5万人」を上回るものでした。
この演説は、アメリカを分断したこの戦争の惨禍を乗り越えて「この国家が神のもとで自由を新たに生み出すこと」「奴隷制を廃止した、真の意味での自由の国・合衆国」を目指し再出発しようと呼びかけたものでした。興味深いことは大統領の演説史上、最も影響力を持ったこの演説は実はメディア(新聞)の力を借りて広まったということです。
この世紀の名演説ですが、体調を崩していたリンカンの声は消え入るようで、離れた人々は演説が始まったことすら気づいていませんでした。しかし、感動した記者が取材ノートを元に記事にし、何人もの支持者が原稿を知人らに配布し、演説の偉大さが徐々に広まったというわけです。
健全で強いメディアの存在が重要なことだということもこの演説からうかがえます。
この演説は有名な「人民の……」という1節で締めくくられていますが、井上さんはこの「the people」という訳に「国民」という訳語を与えました。
命を捧げた人の死を無駄にしないこと、この国家が神のもとで自由を新たに生み出すこと。そして、国民の国民による、国民のための政府を、この世界から滅ぼさせはしないことを。
「人民」という抽象的なものでなく、目の前の「国民」を礎にした国家再建というリンカンの意思がより強く感じられる訳です。このようにいままで“定訳”とされていた言葉に新たな光を当てているのもこの本で見過ごしてはならないところです。
リンカンのこの演説はアメリカ民主主義の最高峰を示しています。そして残念なことにこの民主主義が危うくなっていくことがこの本の演説集を読んでいると気がつきます。そこには2つの世界大戦の影響がありました。理想家肌のウッドロー・ウィルソン、彼は国際連盟の提唱者でしたが(アメリカは連盟に不参加)、それ以前にアメリカの国是に反対して世界大戦に参戦することを決定した大統領でもありました。といっても彼が好戦的であったわけではありません。
ウィルソンは道徳的な信条が高く理想主義者でした。よき世界の実現のためにはアメリカの民主主義が世界に広まることが必須であり、アメリカが世界を導いていくのが使命であるという信条をもっていました。このため、彼の外交は(押し付けがましさの皮肉の意味も含んで)「宣教師外交」と呼ばれました。
今に続く、世界をリードするアメリカという国家意思は彼から生まれたと言っていいと思います。ウィルソン自身は理想・使命感にあふれた“王道国家”を目指していたのでしょうが、実現したのは“覇道(覇権)国家”アメリカでした。それ以降のアメリカは理想(=王道)を掲げつつも、実際は覇権国家としてのふるまいが前面に出てきたのです。収録されたルーズヴェルトやトルーマンの演説にも見え隠れしています。
ウィルソン以後覇権国家を目指したアメリカは、大きな副産物を生み出しました。今に続く軍産複合体です。この軍産複合体に大きな警鐘を鳴らしたのがアイゼンハワーの「離任演説」でした。この本では「軍産複合体」という言葉が、草稿では「軍産議会複合体」となっていたことも記されています。もともとは“軍事・経済・政治”が一体化しているということへの警鐘だったのです。このアイゼンハワーの懸念は、現在ではさらに一層強まっています。
最悪のことは核戦争です。(略)銃が一丁製造されるたびに、軍艦が1隻建造されるたびに、ミサイルが1発発射されるたびに、腹をすかせ飢えた人から、着る服もなく凍えている人から、金を巻き上げていることになるのです。(略)重爆撃機1機で30の都市にレンガ積みの学校が建設できます。(略)駆逐艦1隻で8000人が住める住宅を新築できるのです。(略)このような生活様式はありえません。戦争の脅威という雲の下で、鉄の十字架にかけられるのは人類自身なのです。
これは「すべての人々に正義の平和の機会を」という演説の一部です。日本の全政治家に拳拳服膺して欲しい言葉です。第2次世界大戦のヨーロッパ戦線の最高責任者を経て大統領になったアイゼンハワーは軍事産業の脅威、恐ろしさを実感していたのです。
アイゼンハワーの後を継いで大統領となったケネディも見事な演説を残しています。ケネディでは、「就任演説」の「国があなたのために何をしてくれるか考えるのではなく、あなたが国のために何ができるか考えようではありませんか」という最後の1節ばかりがクローズ・アップされていますが、その言葉の前により重要な言葉が述べられています。
わが国と敵対関係にある国々に対しては、誓約ではなく要望をお伝えします。双方でともに平和をめざして進み始めましょう。科学によって解き放たれた暗黒の破壊力が、意図的であれ偶発的であれ、すべての人類を滅亡させてしまう前です。
このケネディが語った「国」というものはは目の前にある「国」というわけではありません。「人類共通の敵である独裁政治、貧困、病気、そして、戦争そのものに対する闘い」を行う「国」なのです。
世界の長い歴史の中で、自由に最大の危機が迫ったときに、自由を守る役割を与えられた世代は多くはありません。私はこの責務にひるむことなく、喜んで引き受けます。誰もその責務を他の誰かに譲り渡したり、次の世代に先送りしないと私は信じています。わたしたちがこの取り組みにつぎ込む熱意、信念、献身は、この国と、国に捧げ尽くす人を輝かせるでしょう。そして、その情熱の光は真に世界を照らし出すことでしょう
“王道国家”の輝きを望んだ1節だと思います。
こうした力強い演説が続くこの本の最後に収録されたトランプ大統領の「就任演説」を読むと彼我の差に愕然とします。彼のいう「アメリカ・ファースト」が扇動的なレトリックを使って「世界協調とはほど遠い、自国利益ばかりを強調」していることが一目瞭然です、。
この本に収められた演説はどれも力強さ・信念に満ちあふれたものです。そこには優れたスピーチライターの存在もあるかもしれません。けれど演説者の意思・理想がなければどのようなライターであってもこのような演説を書くことはできないでしょう。官僚・スタッフの作文を読んでいるだけの日本の首相や政治家は見習ってほしいところです。なにしろ書かれた漢字を読み間違うなど、あり得ないことが日本の国会で起きているのですから。
政治は言葉であるということを再確認させるこの本には大きな“付録”があります。ルーズヴェルト以降の大統領の肉声ファイルがダウンロードできるようになっているのです。ぜひ1聴してください。声の向こうから彼らの個性が浮かびあがってくると思います。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
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