普遍的な「正義」とはどのようなものなのか、その思想の歴史を追い、さらに現在の課題を説いたスリリングな1冊です。
──グローバルな正義について語ろうとする者の前に、「正義の境界」という問題が立ちはだかる。空間を移動すると正義観が変わるという状態は、そこに暮らす人びとが正義を文化として擁護し、また「正義の中身は、その国民しだい」とみなす相対主義が一般化しているだけに乗り越えがたい障害となっている。──
「正義の境界」がどのようにして生まれてきたのかを追究した第1章、そして第2章ではその境界(=国境)ゆえに「国際正義」というものが生まれてきた歴史が追究されています。原理論とでもいえる部分です。
始まりはギリシャのポリスでの正義観です。ポリスでは、正義はどう考えられていたのでしょうか。
──ここにおける正義は、外に対しては誰よりも勇敢に戦うが、内に対しては礼儀正しく寛大に振る舞うという道徳をも意味している。そういった二重の道徳をわきまえた市民の集う文明共同体が、政治・祭祀・軍事共同体としてのポリスだった。──
ポリス内では「親切や慈愛こそが正義」と考えられていても、「共同体間の争いになると、集団が生き残るために、あるいは富を略奪から守る」ために戦争を引き起こし敵対集団を殺すということが起きます。これは次のように正当化されました。
── 一般に、正義が生存と結びつけば、生存のために必要なあらゆる手段は「殺人をも含め」正当化される。逆に言えば、「われわれ」の生存を脅かす「奴ら」は、われわれに不正を働く人びととみなされ、また「奴ら」を退けることは正義を施すことだと解釈される。──
この正義観はキリスト教と結びつき普遍的な正義というものが存在すると思われました。この正義観が異教徒との戦争、十字軍の理念を支えるものになりました。もっとも十字軍の実情は次第に正義とはかけ離れたものになっていったのですが……。
ところが宗教改革によって“カソリックの正義”に対峙する“プロテスタントの正義”があらわれたのです。そして凄惨な宗教戦争の果てに、カソリック、プロテスタントの正義が“共存”することになりました。それぞれの宗教が支配した領域内でそれぞれの正義が主張されたのです。
──みずからの領分を確保した教派は、その領域のなかで自治を達成し、しかも正義をある程度「強制する」ことが可能となる。こうして、領土で区分された複数の正義が西ヨーロッパに並び立つ結果となった。──
この正義観はその後、国家へと受け継がれていきました。正義は再び「境界」を持つことになったのです。
一方、戦争はどう捉えられてきたのでしょうか。かつては正義を掲げて戦争が行われました。
──自身に正義があることを証明するためにも、彼らは戦闘に勝つほかないと考えている。首尾よく勝つことができれば、勝者は歴史を書く権利まで手に入れて、その正義を後世に伝えることができる。──
自分たちの正義を貫くためには戦争に勝利しなければなりません。ここから正義の戦という考え方(観念)と同時に勝利したものが正義であるという考え方もまた生まれてきました。
この先に次のような考え方が生まれてきました。
──民族が相互に戦火を交えた場合、勝利する側はより高次の歴史的使命を帯びていたから勝利をつかむことができたのであり、勝利という栄光は、その共同体内の正義が普遍性にかなっていたことを確証させてくれる。このようにヘーゲルにおいては、「生死を賭した」戦いに勝利し、みずからの存在を他者によって承認されることが、より人間らしい生きかたを手にする方法であった。──
正義が戦争の勝利によって保証されるという考え方は間違っています。なぜならこれは「無差別戦争観」にほかならないからです。正義は単に国家が戦争を行う理由づけにしかならず、しかもその正義は普遍的なものでなく、戦争の勝利によって後から(事後的に)主張されるものでしかありません。正義は国家の戦争意思の名目(ありていにいえば、ごまかし)でしかないということになっています。“勝てば官軍”という言い古された言葉が思い浮かびます。
では、正義というものは存在できないのでしょうか。これがこの本の最後の問いです。
正義は、それはどのような場合に問題視され、正義のありかが問われるようになるのでしょうか。たとえば国境を越える「環境問題」、「地球的な不平等、国家間の格差が生んでいる問題」に対する場合に、正義というものが問われるのではないでしょうか。さらに、ある国家が他の国家に意図しないにもかかわらず不利益を生むことになる不均衡、この地球的な不平等、格差というものを解決するにも正義の論理が必要とされます。
先日、中国の民主活動家、劉暁波氏が亡くなりました。中国政府の人権を無視した投獄と劉暁波氏の病状に対する非人道的な対応、それによる死。これは国家の犯罪です。ここにも正義というものが問題にされるのではないでしょうか。
──グローバルなレベルで共通規範を必要としている分野は、人権や環境だけではない。テロと組織犯罪、資源・エネルギー、核開発と原子力、金融市場の安定化、食料・飢餓・貧困などの諸問題に対して文明を超えた誰もが「正当だ」と認識できる対策を打ち出さなければ、共同で対処することはできないし、解決に向けて世界の人びとを動員することもできない。──
境界に閉ざされた「正義」ではなく、国家を越える正義である「国際正義」が「共通規範」として今一度求められています。それはもちろん“大国(覇権国)の正義”ではありません。もちろん個別の宗教や(ひとりよがりの)ナショナリズムの心情に基づくものでもありません。
──「現下の国際秩序やグローバル化の受益者が誰であり、犠牲者が誰であるのか」という問いを通じて、既存の秩序や規範を「正しさ」という基準で再吟味する姿勢を保ち続けることである。──
この再吟味こそが「創造的対話」であり、自己の主張を押し通すことなく、また自己の文化などに驕ることなく、他者と徹底的に対話し続けること、そのようななかから「国際正義」が生まれてくるのではないでしょうか。大国のエゴに振り回されがちな国際秩序のなかで正義がどのように実現できるのか、難題ではありますが、それを追究することの重要性を感じさせた1冊です。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
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