ここ数年、江戸ブームというのが続いています。江戸の街はエコ・リサイクルシティだったという見方をはじめ、さまざまな観点から江戸が見直されています。下町再評価というものもこれに繋がっているのかもしれません。
江戸時代というと、幕末等の動乱期や、いくつかの乱をのぞけば、時代風潮もどこかゆったりとしたイメージが浮かんできます。現代のように生き馬の目を抜くような、油断のできない、世知辛い世の中ではなかったというような……。もっとも、こういった江戸の再評価は時代小説やドラマの影響もあるでしょう。時代物と呼ばれるものはほとんどが江戸時代が舞台になっていますから。
さて、江戸の街は、武家地が7割前後、町人地は1~2割程度、寺社地は1割強で、人口は150万人、うち町人が50万人、武家等が100万人だったそうです。この江戸の庶民の暮らしぶりや情緒を知るには古典落語を味わうにしくはありません。この本は落語に精通している堀井さんが落語の中で語られた江戸の庶民の姿を浮かびあがらせたものです。
落語の登場人物はどこか抜けている人が多いようです。あるいはまた、「江戸っ子は、五月の鯉の吹き流し、口先ばかりではらわたはなし」を地で行った人も登場します。(もっとも堀井さんは京都生まれだそうで、この本では江戸っ子気分があふれた江戸噺だけでなく、上方噺もとりあげています)
この本に興味深い記述があります。キツネやタヌキにだまされる『お若伊之助』という噺に触れたくだりです。この噺には「演者に理解のある場所で掛けられる」ことが多いそうです。タヌキの騒動を描いたこの噺は、キツネやタヌキ(狐狸妖怪)が人を化かすということがしっかりと理解(!)されていないお客には、ちんぷんかんぷんな噺になってしまうからです。なんだかわからず“キツネにつままれた”ような気持ちになってしまう噺ということでしょうか……。
「人がキツネやタヌキに化かされなくなった」今ではこの噺は聴く人を選ぶようになってしまったということでしょうか……。堀井さんは『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(著:内山節)という本に触れてこう語っています。
──日本人は昭和三十年代まではまだ狐狸妖怪が跋扈(ばっこ)する世界と隣接して生きていたのだが、それ以降、別の道を歩きだしてしまったということである。昭和四十年を境に、キツネは人を騙してくれなくなった。人もキツネに騙されなくなった。キツネの姿を借りて人を騙していた存在は、とりあえずキツネの姿を借りなくなったということだし、また人間もそういう場で騙される器量をなくしてしまったのだ。騙されるにも器量が必要である。──
昭和30年代までは江戸の空気がまだ感じられたのでしょう。落語の世界でも8代目桂文楽、5代目古今亭志ん生、6代目三遊亭圓生などの名人が江戸噺だけでなく古典落語の世界を目の当たりさせてくれました。この師匠連の噺は決して習い覚えた昔語りではなく、生きた江戸を感じさせてくれました。このあたりのことが腑(ふ)に落ちていないと江戸の世界もいたずらに過去を美化することになってしまいます。
たとえば、夜の虫の世界。わずかな明かりに集まってくる虫の集団……。今ほどではないでしょうが夏はもちろん暑い……。その上、蚊の大群がやって来る。
──縦横に水路がめぐらされていた江戸では、蚊から逃げることはない。これは昭和中期ころまで似たような状況である。はるか原始の時代より、つい数十年前までは、われわれは夏は家屋を開け放ち、風通しがいいように暮らしていた。風も通るが蚊も通る。それが当然である。だから夏は蚊帳を吊る。──
いまの私たちの暮らしでは虫は徹底的に排除され、「生活はきれいにクリーンに」なりました。
──五十年前と比べればいまの生活はおそろしく便利である。そのぶん何かを失ってゆくのだけれど、失ってゆくものに対してはあまり頓着しない。もちろん戻れったって、昔の生活にはまったく戻りたくないです。──
開け放った家屋のなかには長屋もあります。落語にしばしば出てくる貧乏長屋、たとえ泥棒がはいっても少しも動じない長屋の住人の噺(『夏泥』)。貧乏でも人情味があるというのだけではありません。貧富の格差、身分制度が厳然とあった江戸時代の貧乏は半端ではありません。
──貧乏でも賑やかに暮らしている。いつも笑いのめして生きている。落語を聞いていると、貧乏って笑える、とおもってしまう。断るまでもないが、本当の貧乏は笑えない。自分の貧乏はまず笑えません。でも落語では自分の貧乏さえも笑っていて、そこには少し凄みがある。──
もうひとつ興味深いのは病気に対する江戸庶民の考え方です。
──落語では「病い」を「引き受ける」という。(略)病気になる、ということだ。病いは自分の内にあると考えているわけで、そのへんは、江戸の人のほうが長けている。ただ、どうしようもないから諦めるってことでもある。それが幸せとは言えない。でもどうにもならないことを、なぜ、私が、家族がこんな目に、と考える苦しみはそこにはない。近代人は、病気をすべて「外のもの」と捉えるのがいけないやね。──
堀井さんがこの本で、落語の世界から探り当てたものはこれらだけではありません。花見、江戸の華と呼ばれた火事、火消し(火事と喧嘩は江戸の華!)、神様、埋葬(火葬と土葬)、金払いなどなど、それらが100以上の落語の中から語り起こされています。江戸の庶民、時には武家がそれらをどう感じていたのか、どう楽しんでいたのか、どう畏れていたのかがこの本ではイキイキと再現されています。この部分は落語を楽しむ副読本でもあります。(巻末にある100を超える引用した落語の索引があります!)
これらはすべて「キツネにだまされていた時代」にはあったものでした。そのころは今とは「人間観も自然観も、生命観も異なっていた」のです。そのことを踏まえて江戸の庶民の暮らしを知ること、それは今の私たちが合理的、便利優先の掛け声で失ったものを思い起こさせるものだと思います。豊かさやエコというものではなく生きる強さを感じることもあるのではないかと思います。とはいっても“江戸しぐさ”と呼ばれるものやそこから生まれた“親学”には大きな問題はあります。こちらは『江戸しぐさの終焉』で大きく取り上げられています。いまの日本に影を落としている江戸文化を知るには必読です。その歪みもよくわかります。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
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