すでに日本の軍事的敗北が明らかになっていた太平洋戦争の末期、人間を兵器と見なした作戦行動が実施されました。特攻作戦です。この本はこの無謀な特攻作戦に参加した兵士たちが残した日記、手記、手紙を読み解きながら、特攻の内実に迫った力作です。特攻を考えるうえで必読の1冊です。
戦後、特攻に対する見方には大きく異なった2つのものがあります。
1つは「英霊の中の英霊」という見方です。
これは「彼らの死があって、戦後日本の繁栄がある」という考え方で、「国家の人柱」となったというものです。
しかし、これには大きな欠陥があります。
──国家の英霊という論に傾く限り、そこには責任論がまったく欠けていて、まるでなにかの天災にでもあったかのように傍観者然とした論でしかなくなる。この傍観者然とした姿勢のいきつく先は、戦争そのものの責任を曖昧にして、まるで特攻隊員のみならず戦死者をすべて神とするような発想にゆきつくのではないかと思う。
あえて言えば、生者の傲(おご)りそのものである。──
さらに、
──「十死零生」というこのような戦術を強行した軍事指導者は、近代日本のなかのもっとも恥ずべき指導者として相応の批判を受けて当然である。──
およそ軍事作戦・軍事行動において「十死零生」などと呼ばれるような作戦はあってはならないし、このような「命令を下す権利はない」というべきでしょう。これは作戦の放棄というべきものです。
「戦争というメカニズムのなかで人為的政策の犠牲者という視点がみごとなまでに欠落している」英霊観に対してもう1つの見方は「犬死に論」というものです。
この見方にも大きな欠陥があると保阪さんは指摘しています。なにより「特攻隊員の悲しみや苦しみを足蹴に」しているのです。この見方にも、「生者の傲(おご)り」あるいは「思考の怠慢」とでもいえるものがあります。
──犬死に論もまたまたそうなのだ。戦争の現実を分析するよりも、まずは思想や理念で人間を見て、自らの思想に合致すれば良き人間、合致しなければ悪しき人間という単純な二元論である。──
太平洋戦争(大東亜戦争)は「東アジアの米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛態勢を確立する」(大本営政府連絡会議より)として戦われました。しかし、ここにはある視点が欠落しています。
戦争目的らしきものはあっても、戦争に不可欠な戦争終結の視点がなかったのです。
──具体的には蒋介石政権を屈服させ、ドイツ、イタリアと提携してイギリスの屈服を図り、そのことでアメリカの継戦意思を喪失せしめるとあった。(略)戦争終結の主導権は日本側にあるのではなく、相手側の継戦意思にかかっているという事実であった。その意思をくじくために、日本は際限なく軍事的優位性を誇示しなければならなかった。──
恐ろしいくらいの「政治の不在」であり、日本(軍部、指導者層)の甘さです。
さらに、重要な指摘があります。
──特攻作戦は現場の指揮官や現実に戦争指導を担っている中堅幹部の間から起こり、それがやがて軍事指導者の黙認、ないし奨励へと進んだと考えるべきではないかと私は思えてならない。──
戦争(戦闘)の勝利のみを考えていた中堅幹部や下士官がこの戦術の具体的な考案・遂行者であり、指導者は「目前の戦況の悪化」の対応のため追認(あるいは黙認)したのです。ここに「軍事的優位性」を求める軍部の意思が入り込んだのでしょう。
戦争目的、それは戦争終結を考えることであり、極めて政治的な意思・判断です。この政治的な判断の曖昧さ、不在が玉砕を生み、「十死零生」の特攻を生む温床となったのです。
政治が軍事、それも戦術的なものにどこまでも従属していったのが、太平洋戦争の末期に起こったことでした。そして特攻は戦意高揚のために大本営や「神兵」としてメディアに利用されていきました。
無惨な指摘があります。
──学徒兵の特攻隊が出撃するときに、司令官や隊長、あるいは高級参謀などは、いずれは私も行く。先に行ってくれ」と励ましたり、口あたりのいいことを言って送りだしたりしている。しかし、彼らのなかで実際に出撃したものは、ほとんどといっていいほどいない。あろうことか自らはその基地からさがってしまったり、戦後になって、「あの作戦は志願という形を採った」と言い逃れを撒(ま)き散らしている者もいる。──
特攻を精神論や美学的なものとして捉えるのは間違っています。ここにあるのは兵士の素朴ナショナリズムを利用した指揮官の戦術立案の罪です。
特攻に殉じた学徒兵の印象的な手紙があります。
──権力主義の国家は一時的に隆盛であろうとも、必ずや最後には破れる事は明白な事実です。我々はその真理を、今次世界大戦の枢軸国家において見る事が出来ると思います。ファシズムのイタリヤは如何、ナチズムのドイツもまた、既に破れ、今や権力主義国家は、土台石の壊れた建築物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。真理の普遍性さは今、現実によって証明してい行くと思われます。自己の信念の正しかった事、この事はあるいは祖国にとって恐るべき事であるかもしれませんが、吾人にとっては嬉しい限りです。──
このような手記を残した者すら特攻におもむいたところに大きな悲劇があります。自己の思想の正当性を知りながらも、それを主張することもなく特攻という使命に殉じたのです。
──自らの不満や不安が消え失せない時代はいつもある。しかし、国家が一方的に戦争を始めておいてその責任を青年に回すということほど理不尽なことはあるまい。特攻隊員はそういう理不尽さや不条理を直接に引き受けた人たちである。私のいう、悲しみとはそのようなことも含んでいる。だからこそ、特攻隊員たちとともに悲しみを分かちあうことで、私たちは自分の生きている時代への尺度をもつことができるのではないだろうか。──
戦術の極限であらわれた特攻の実態を忘れないためにも、戦争の不毛さ、さらには政治の貧困がなにをもたらすかを忘れないためにも、なんどでも読み返したくなる1冊です。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
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