普通でいること、普通に生きることは、往々にして面倒くさいものです。“普通”とはルールや常識なる言葉に換言されうる概念であり、没個性的で平準化された私たち、のことです。
吉川トリコさんの『ミドリのミ』は、そうした“普通”なる共同幻想の中で息苦しさを感じる人たちを丹念に描いた群像劇です。小説の冒頭から“普通”の枠組みから外れた少女のしんどさが伝わってきます。
ドはドーナツのド
レはレモンのレ
ミはミドリのミ
と歌ってしまった小学生のミドリは、このとき「ミはみんなのミ」と歌うべきでした。それが普通だからです。そうしないと、「さっきのあれ、へんだったよね」と言われてしまいます。友達のふりをした女子児童から陰湿なイジメにも遭う。“普通”は残酷で面倒くさいのです。
そもそも、ミドリに間違った歌詞を教えたのは、どうやら彼女の父親のようです。父の広(ひろし)は凡庸なサラリーマンですが、妻とは別居中で、男の恋人がいます。ゲイのカメラマンと電撃的に恋に落ち、その恋人の実家がある田舎に引っ越してきた。恋人の源三(げんぞう)と娘のミドリと3人で共同生活を送る広は、LGBTという言葉が一般に普及した現代であっても、やはり“普通”の枠からは外れる存在のようです。
広の恋人の源三も、同性愛者であるがゆえに苦しんできました。その源三に特別な想いを抱く女子大生の花世(はなよ)も、子供の頃から「へん」と言われ続けてきた。ミドリの母で広の妻、才女でキャリアウーマンの貴美子(きみこ)も、作中、既成の価値観や常識に最も従順な女性でありながら、自分の考えを絶対視してそれを押しつけるエゴの強さが個性的すぎます。
“普通”は確かに便利です。異端を忌避し、無視・排除できないものはデファクトスタンダードにして共通認識を持つことで、効率的・安定的にこの社会を生きることができるから。個体としては脆弱な人間が、安全に集団生活を営むために考え出した知恵の産物なのでしょう。ともすれば“普通”こそが人類が生み出した最大の発明なのかもしれず、不変にして普遍の価値観とすら思わされます。
でも、そんなふうに思えてしまうほど強力なものだからこそ、頑迷であり面倒でもある。ファナティックな“普通”への信心は、差別やイジメの原因にもなります。
『ミドリのミ』で描かれているのは、そのような普通が及ぼす弊害だけではありません。相手の何気ないひと言や仕草で簡単に傷ついてしまう繊細な心であったり、個性的な人物同士の衝突やすれ違いです。とどのつまり普通であってもそうでなくても、人間は面倒くさくて難解なのです。それでも自分以外の誰かに理解されたいし、他者のぬくもりがほしくてたまらない。それが僕たち私たちなんだ、と言われている気がしました。
そんなふうに本書は、いちいち胸が痛くなるようなものばかりを執拗に描写し、全体を通じて漂う切なさや、やるせなさを感じさせる物語ですが、それでいて、温もりや希望も確かにちりばめられていました。だからこそミドリたちが理不尽な場面に遭遇しても、僕の場合、不思議と不快感は少なかった。ときにはある種の諦念すら交えて淡々と描き、いっそ潔いくらいにリアルな筆致が、著者の柔らかな文体や的確な表現の妙が心地いい。
登場人物たちの今後の幸福を祈りたくなるような小説でもありました。日常における様々な残酷性を子細に描きながらも、『ミドリのミ』が本当に伝えたかったのは、もしかしたらそこだったのかもしれません。情理に乏しい酷薄な現実の中で懸命に生きる登場人物たちの、折に触れて顔を出す優しさであったり温もりだったのでしょう。
レビュアー
1983年夏生まれ。小説家志望。レビュアー。ブログでもときどき書評など書いています。現在、文筆の活動範囲を広げようかと思案中。テレビ観戦がメインですが、サッカーが好き。愛するクラブはマンチェスター・ユナイテッド。