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2017.07.11

レビュー

『世界に一つだけの花』で歌われたのは、個性ではなく孤立ではないか。

──すべては90年代に準備され、00年代にみごとに世界を変えていった。00年代とは、つまり音も立てずに、社会の底を抜くような時代だったのである。音がしない。言葉にされていない。そこが異様であった。ある意味、とても厳しい時代であった。社会の底のほうがどんどん変わっていくため、ただ、黙って、その流れにしたがって動いていたばかりである。──

この厳しさというものが少しずつ私たちの心に蓄積されていきました。そしてそれは「00年代後半の『無謀ともおもえる破壊的抵抗』を生み出した」のです。けれどこの抵抗は「何の効果も持たない無駄な抵抗」でした。

この本で2008年の秋葉原無差別殺傷事件が取り上げられています。といってもこの事件が「若者の怒りが暴発した」事件といっているわけではありません。(この事件を取り上げた「第6章隠蔽された暴力のゆくえ」はこの本でもっとも読み応えのある章です。じっくり読んでいただきたいと思います)

この事件はどのように語られていたのでしょうか。

──同世代の若者たちが、犯罪そのものは認められないが、気持ちとしてはわかる、という理解を示していた。この心情がどこまでの若者に共感されていたのかさだかではないが、マスコミはそういう言葉を積極的に拾っていた。──

堀井さんによれば携帯サイトに犯行予告を書いていた犯人をマスコミは、「格差社会における派遣社員という弱者」であり「不細工で友達も彼女もいないというリア充・勝ち組に対して恨みを持つ弱者」と語っていました。

しかしこの論点は加害者の法廷での供述によって覆されます。

──犯人は、べつだん派遣社員である不満によって犯罪にはしったわけではない、と明言する。また、「ブサイクでモテなかった」というのも、一種の演技だったと言い始める。(略)事件を起こすポイントは、直後にさんざん指摘されていたところにはなかった。これによって人が受け入れやすい文脈では語れない事件となった。──

なぜこのような誤解(曲解?)が起きたのでしょうか。それは世間の中で「若者の怒りの発露」という文脈が求められていたからです。「誰かがそういう文脈で暴力をふるうことが、残念ながら、期待されていた」からでした。ですから肝心なのは次のようなことでした。

──若者は不満を抱いていた。でもそれは、大人が期待するようなわかりやすい不満ではなかった。何が足りないのか、何が欲しいのか、それを名指しできなかったのが、苦しいのである。──

ここに見られるのは細分化された社会の中で「個別に存在」することを強いられた(そのようになってしまった、されてしまった)若者の姿でした。もはや「すべてを揺り動かすものは出現しにくくなっていた」のです。

これをもたらしたものが「00年代」だったのです。

2000年を迎えたころ、パーソナルコンピュータが一般化し、インターネットが急速に普及し始めました。

──2002年には国民の半数以上が利用するようになった。2005年には普及率は7割を超え、そのあとは漸増している。00年代前半にあっという間に普及していったのである。──

これがもたらしたものは徹底した「個人化」というものでした。

──パーソナルコンピュータは個人使用のものである。(略)どこまでも個人である。僕たちは携帯電話を持たされるころより、徹底して個人に分けられ、個人で消費するように督励された。──

インターネットはこの個人に分割・疎外されたことからくる不安をなくしてくれるようにも思えました、当初は……。

──いろんなところにつながれると知って、僕たちは急ぎ、世界とつながろうとしたのだ。(略)いろんなものを捨てながら転がっているような気がしたが、止まることはできなかった。やがてインターネットは個々人にあまねく介在し、僕たちはもっと個に割られることになる。このとき僕たちはまだそのことに気がついていなかった。──

インターネットに覆われた社会の底で「何かすごく大きな別のものを失いつつ」あったのです。

──みんな美しく孤立している。社会のシステムが美しい孤立に向けてきれいに整えられ、かれらはそこに丁寧に迎え入れられたのだ。そういう社会を僕たちが作ってしまっていたのである。──

孤立した社会で、あたかもそれを肯定するように歌われたのが『世界に一つだけの花』(2003年3月5日)でした。これの歌は本当に「個性」を称揚している歌なのでしょうか。

──高度資本主義社会というのは、常に何か新しいモノを開発して作っていくしかない。個人に一つづつ売って、それで終わるわけにはいかない。もっと細かく「世界に一人だけのあなた」というキャッチフレーズで、その人にいろんなものを買ってもらわないと、この世界がまわらない。──


「個性」ではなく、消費をさせる「個」をめぐる歌だったのです。「消費=商品世界」の中で歌われた歌だったのです。

そしてこの世界が「やさしさをまとった殲滅」を進めているのです。「力を感じさせない暴力的な変革」が進行しているのです。

私たちは「それぞれ、きれいに分割され、丁寧に扱われている」、それが「やさしさ」の正体です。「人は消費を続け、きれいに孤立」していきます。けれど「少し心地のいい孤立」でもあります、その「心地よさが世界の趨勢を決めてしまう」ことなど、もしかしたら気づかないままに……。

かつては私たちを結びつけていたものが失われていく、個性という名のもとに、かつては自分たちの世界にあったものを失っていく。けれどやっかいなことに「なくなっていくときの悲哀も惜別も存在」しない。そんななかで00年代が過ぎ今に至っています。

──「世界に一人だけのオリジナルな消費活動」をきちんとトレースし、間違いなく買ってくれるものを案内して、購入してもらうことがとても大事になった。その人がどんな人であるかは、どうでもいい。何を買うかさえわかっていればいいのである。「かけがえのない」オリジナルな消費行動をきちんとトレースできることが重要になった。──

この世界がもたらす息苦しさ、その原因を求めて綴られたエッセイがこの本です。ラノベが語られ、コミケが語られ、情報の変質を、さらにはブラック企業まで語られています。どれもがあるところから「世間(=世界)の消失」について語られています。かつてはさまざまな楽しみで溢れていた“世間(密な共同性)”が失われたことを明かしています。その“世間”には間違いなくあった「継続性(=他者のバトンタッチ)」「想像力」もまた失われていきました。

船乗りの過酷な仕事・世界を表す言葉に「板子(いたご)一枚下は地獄」というものがあります。船乗りの仕事の危険なことをいっているのですが、少し拡大解釈(援用)めきますが、私たちもまた「一枚下は地獄」の上を歩かされ、生かされているのかもしれません。どこか暗いトーンの本です。読みながら太宰治の「明るさは滅びの姿であろうか。人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ」(『右大臣実朝』)を思い出しました。今私たちがいるのはどちらなのでしょう。そんなことを感じさせる1冊でした。

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。

note
https://note.mu/nonakayukihiro

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