この本の底流にあるのは現在の日本への危機感です。入江さんは本書執筆の意図をこのように記しています。
──現段階の日本の政治や言論の一つの傾向として、保守的、とくに偏狭な国家主義(ナショナリズム)に偏った歴史解釈が影響力を増しているかのような印象を受けるからである。──
この偏狭な歴史解釈はどこから生まれたものなのでしょうか。それがこの本の出発点です。
かつて世界史(=世界)は強大国あるいは覇権国の歴史として捉えられていました。「ヨーロッパを世界の中心として人類の歴史を考えて」いたのです。
──(ヨーロッパ)中心的な史観をとると、どうしても近代史や現代史も国単位の歴史に傾きやすくなる。十七世紀以降、とくに十八世紀半ば以降の世界史を国家中心にとらえるのも、近代ヨーロッパにおいて主権国家が成立し、各国の政治や経済、そして国家間の関係が各国の歴史にとって重要となっていくからである。──
この国家中心主義の視点が、強大国を中心として世界の動きをとらえようとする歴史観を生んでいます。これは同時に「地政学的な現象(“大国の興亡”、“戦争の起源”、“戦後の世界秩序”など)を通して歴史を理解する」ことに繋がります。
──十九世紀以降、地球に住む人間の大部分にとって、国家とのつながりが最も重要なものだとされるようになる。国家は、生まれてから死ぬまで、自分の権利にせよ義務にせよ個人に根本的な枠組みを与える存在だ。自分がどこの国民(市民)であるかが、他のすべてのつながりよりも重要になったのである。国家という存在は、ある特定の場所の行政機構を意味するだけではなく、そのスペースに住む人たちに一定の概念や感覚すらも共有させるものだった。──
ところがこのような理解(歴史観、世界観)は偏頗なものとして批判されるようになりました。
──国家同士の関係には、軍事、戦略、あるいは植民地経営などのほかにも、経済、文化などのつながりもある。さらには国境を越えた多種の出会い、接触もあるし、国家という枠組みとは別に人種や文明などの間の触れ合いもある。そのすべてが世界であり歴史なのだ。──
それだけではありません。強大国史観に立つと20世紀の二度の世界大戦の「犠牲者の多くがアジア、中近東、アフリカ、南米、太平洋諸島などの人たちであったにもかかわらず、彼らの視点は、強大国中心の歴史ではまったく考慮されない」ということが起こっていたのです。
この「極めて偏った歴史観」へ批判として生まれてきたのが「グローバル・ヒストリー」です。グローバルというと経済上の国際関係がすぐに思い浮かびますが、それだけではありません、「移民・避難民などに見られる人口移動、人権や環境問題、地域共同体」などのことが含まれています。入江さんがいう「ヒューマンな現象」こそが本来のグローバルというものなのです。
さらに近年では「トランスナショナリズム」というものが提唱されてきました。これはグローバリズムをさらに具体化したもので「国境を越える思想、あるいは国家の枠を越えたつながり」を重要視し、その観点から世界を捉え返そうというものです。
グローバル(トランスナショナル)な視点で世界を捉えるというと至極当然のように思われるかもしれません。どの時代であっても諸外国との通商、交通がなかった時はないのですから。
けれど現在大きな反動が起きています。それを象徴するのがトランプ政権の“アメリカ・ファースト”という志向です。トランプは極端な例かもしれませんが、ヨーロッパで中国で、もちろん日本でも“ファースト”という声が聞こえてきているように思えます。
これが現在の「保守的、とくに偏狭な国家主義(ナショナリズム)」につながっています。この動きの底流に揺るぎ始めている“国家”への危機感があります。国家は「近代世界において根底的存在」でした。それがグローバリズムの波のなかで揺さぶられ、「伝統的な意味での国家という存在が不安定」になっているのです。これもまたトランプに象徴されるような「国益重視」という、一見もっともらしく聞こえる声高な主張を生んでます。しかしそうではありません。
──「国益」の固守と発展という、伝統的な国際関係の概念が作り出した「パワーゲーム」はほとんど意味を持たなくなっているにもかかわらず、依然としてそれにこだわる政治家や評論家が見られるのはなぜだろう。(略)市民社会や文化やNGOなどを通して国際関係をとらえるよりは、ごく一部の国家の軍事力・経済力に焦点を絞って、あたかもそれが全世界の命運を握っているかのような錯覚を保持したほうが、知的にも楽で、心理的にも安心なのだろう。──
彼らに見られるのは「知的怠慢」であり、また自国をパワーゲームの中にいると思っている古びた「大国意識」です。
──国内国外の市民社会の成長と相互のつながり、そして全人類的な問題への高まりを見れば、従来のように「国益」のからみあいを軸として国際関係を考えるのは時代遅れであることがわかろう。──
トランプのパリ協定離脱というのがなにを意味しているかがわかります。パリ協定こそトランスナショナルな視野で考えなければならないものなのです。
経済的な(国益中心という)反動だけではありません。本来はグローバルなものであるはず文化の世界にもそれは見られます。夜郎自大な自国中心主義です。
──自分たちの社会や文化はユニークで、他者は真似できないものだという誇りである。そういった誇りが国のレベルまで高められると排他主義、国粋主義になりかねない。そのような考えが復古思想、保守思想などとつながる場合もよくあるが、それも世界各地の距離が縮まって国と国とのあいだの区別が次第につきにくくなったことへの反動だといえる。──
保守的、とくに偏狭な国家主義(ナショナリズム)は、世界の認識が誤っているのです。「国家中心主義や排他主義をよりどころ」とするのは「歴史を後戻り」させるだけでなく、間違った世界認識を広めようとすることなのです。
──日本史もこれからは過去にも増して世界各地の歴史と関連づけていくことが望ましい。「世界無比」の日本史、「純然たる」日本史などは、もちろん存在しないからである。──
入江さんはもう一つ実に興味深いことを提唱しています。それは「歴史認識」と「歴史解釈」という問題です。
──日本は中国や韓国とのあいだで、しばしば「歴史認識」について対立することがあるが、「歴史認識」と「歴史解釈」とを混同してはならない。「解釈」は「記憶」と同じように、個人(あるいは集団)がそれぞれのものを持っており、共通のものを見出すことは難しい。──
──しかし、「歴史認識」は解釈とは違う。過去についての記憶や解釈が変わるからといって、歴史自体がそれぞれにつれて変化するわけではない。何が、いつ、どこで起こったかという史実、そしてなぜ起こったかを説明するような環境は、あとになって勝手に変わることはできない。したがって、この史実そのものの「認識」はだれにとっても同じものであるべきで、換言すればすべての人が共有できるものだということになる。──
優れた知性とはこのようなものだという見本です。汲めども尽きない叡智がある重厚な1冊です。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
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