「『そもそも』用法、政府が答弁書で正当化」。2017年5月12日の毎日新聞にこのような見出しが躍りました。
──「共謀罪」の構成要件を改めて「テロ等準備罪」を新設する組織犯罪処罰法改正案を巡って、首相は4月19日の衆院法務委員会で「『そもそも』には『基本的に』という意味もある」と答弁し、専門家から疑問の声が出ていた。首相はこのとき「辞書で念のために調べた」とも述べていたため、民進党の初鹿明博氏が質問主意書で出典の明示を求めた。答弁書は、「どだい」を間にはさむことによって首相の答弁を正当化する苦肉の策。「そもそも」の意味として「基本的に」を記載した辞書が実際に存在するかどうかについては、直接答えなかった。──
言葉の用法、それも無茶な意味の拡大解釈であることは明らかです。言葉を軽視(蔑視?)しているというか、言語の意味もどうにでもなるというように思えてグロテスクさすら感じます。いったい言葉をどのようなものとして捉えているのでしょうか。
快著『筒井版 悪魔の辞典〈完全補注〉』(A・ビアス著)を(ひもと)くとこうあります。
・LANGUAGE【言語】名詞 他人の財宝の番をしている蛇を魅惑し、手なずけるための音楽。
もうひとつ参考(?)になるものをあげてみます。
・CONVERSATION【会話】 名詞 できのよくない頭脳の中身を展示する見本市。皆が自分のものを陳列するのに夢中で、隣の展示に目をやる余裕がない。
どこか日本の今の言語状況の劣化を言い当てているような“定義”です。日本は至るところ言葉があふれているように思えます。無関係な人には騒音とも思えるほど、言葉が充満しています。けれどあふれているのは、ビアスがいう周りを無視した“会話”や自分の欲望をかなえるための道具と化した“言語”ばかりのように思えます。
自己主張・自己の欲求実現のための道具と化した言語、それは「相手を他者として尊重」することなく、自分の価値観を押しつけることになります。他者を「個人」として認めていないことになり、「聴くことを遮断した」話し手の一方的な押しつけ(強制)というものなのです。
一方的になっているのは“会話”だけではありません。「討論」もそうです。ディスカッション、さらにはディベートなどは相手を自分の意見に屈服させるゲームといえるでしょう。ここでも“言語”は自分の意思を通すための道具となっているのです。
これは私たちになにをもたらすのでしょうか。
──「他者」を認めず、狭き「欲望」に翻弄されることが、いかに人類に不幸をもたらすものであったかについて、万人が等しく歴史から学んできていることは間違いのないところだと思います。しかし、その悪癖からいかに脱するかについては、法制度を整備したり、いかに「道徳」を説いたにしても、それだけではどうしても一定の限界を超えることができません。──
では私たちに必要はものはなにか、それが泉谷さんがこの本で提唱している「対話」というものです。森有正の「体験・経験論」を引きながら「対話」とはなにかを考え、その重要性と必要性を平易に説いたのがこの本です。
──森氏の言う「経験」は、なんでも「既知のもの」に落としこんで安心したりたかをくくったりする「体験」とは違って、「未知なるもの」に触れて、たとえ不安であろうとも自分が変化することを引き受ける姿勢を指しています。つまり「経験」とは、生き方の基本姿勢にかかわる根源的な問題なのです。──
──「他者」と遭遇することによって、人は自分を知り、自分を再検証せざるをえなくなります。それによって自分の中の借り物部分は次第に崩れていきますが、しかしそれと同時に、真に自分のものと言えるような「経験」が、着実に育っていきます。つまり「対話」とは、私たちのもっとも身近にある「経験」の場であり、人間の成熟に不可欠なものなのです。──
この重要なコミュニケーション、「対話」で重要な役割を担っているのが言葉というものなのです。
言葉をどのようなものと考え使っているのかによって、相手と共に歩む“対話”をしようとしているのか、あるいは単なる“会話”や、意思の一方通行である“ディスカッション”“ディベート”をしているのかが分かたれます。『ヨハネ福音書』を引用して泉谷さんがこう記しています。
──言葉が「他者」を理解し「他者」との良き相互作用を目的とする「対話」に用いられなくなってしまうのだとしたら、言葉は偏狭なエゴの道具に成り下がり、それによって「成る」私たちの世界は、ルサンチマンに(妬み嫉み)と「欲望」の支配する陰惨なものになってしまうであろうということが予言されている。──
これは不毛で傲岸さが漂う言葉から、生き生きとした言葉を取り戻すことでもあります。言葉をどのように使っているのかは、私たちが世界をどう捉えているのかに関わる重要なことがらなのです。
ではどのようなことを心がければ私たちは“対話”に向かうことができるのでしょうか。対話による精神療法を行っている泉谷さんは心構えを含めて14の技法を紹介しています。「たかをくくらない」「同意できなくても対話はできる」などどれも実例にあふれ、わかりやすく書かれています。あとは「他者を知ろう」と思い、他者へ謙虚であろうとすることです。
今の自分を見つめ直すきっかけになる“対話”は、さらにいえば「常識というワナ」に陥らず「思考停止を打ち破る」ものです。それを越えて泉谷さんは対話の可能性をこう記しています。
──世界のあちこちでポピュリズムやナショナリズムが台頭し、ヒステリックな排外主義が臆面もなく主張されるようになってきているわけですが、この不穏で不気味な流れに対して異を唱えることができるのは、「対話」の精神にほかならないでしょう。「他者」を排除すべき異物と捉え、「欲望」の鍔迫り合いに終始するのでなく、創造的な「愛」の関係を結ぼうとする思想、それが「対話」の思想です。──
言葉の価値、対話の重要性・可能性をこの本ほど明確に分かりやすく伝えたものはありません。コミュニケーションについて悩んでいる人、考えているすべての人に読んで欲しい名著です。
言葉の軽視がもたらす荒廃についてこんな1文も目にとまりました。
──政治家の公約を始めとする人々の約束や契約などについても、あるいはひょっとすると憲法や法令までも、言葉を軽く扱っている人々にとっては、簡単にいくらでも無視したりできる程度のものと捉えられているのかもしれません。──
言葉への態度、それはそれを使う人の真相をあぶり出すのです。日本人に多く見られる「本音と建て前」も無用であり有害なものというべきではないでしょうか。そこには言葉への軽視がうかがえるからです。
──「本音と建て前」を使うような人の言葉は、そのいずれにも、言葉に相当するような真実は表されていないのだと見ることができるでしょう。──
“対話”こそが未来を開くものだと思います。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
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