“オレがオレが”が多いいまどきの日本人にぜひとも読んでほしい礼儀作法入門とでもいえる本です。といっても立川談志、桂文楽、柳家小さん、桂文治、古今亭志ん朝などの名だたる噺家のエピソードで綴った“マナー本!”です。笑いながら、時にちょっとしんみりしながら読むのにふさわしい本です。
──「お姉さん、イキだね」
「いや、帰りだよ」って、その往きではなく、粋の話です。
自民が圧勝し、勝ち組と負け組の格差が広がるのは確実。品のない勝ち組がどう生きようと勝手ですが、大多数のわれら負け組はいかにこの世を生き抜くべきなのか。そう、粋を目指すのです。──
こんな“まくら”から始まる“粋字引”、どこをとってもつまらないわけがない。例えば無灯火自転車に接近遭遇して……「あたしは見えるから大丈夫」といってのけた若い女性に一言。
──灯りは自分のためでもあるが、むしろ人のため。対向車や前方から来る歩行者に、自転車がここにいますよと知らせるためにつけんだよ。──
彼女から返ってきたのは「珍獣」でも見るかのような目つき……でした。その時、談四楼師はこんな風に思ったそうです。
──知らないんですね、そのことを。誰からも教わっていないんです。それであくまでも自分が自分がということになるのです。(略)「譲る」や「思いやる」は粋の根本的な精神ですが、無法自転車は野暮の極みです。──
このようなマナーの注意では「電車内」での女性の化粧や食事(?)などについて厳しい一言が収録されています。でも、落語の小言幸兵衛とは違い、筋が通った、シャレが効いた注意です。ここらが粋の粋であるゆえんです。その真髄は本書でとっくりとご賞味あれ。
ところで談四楼師がなにより大事と心がけている「粋」が一体どんなものかといえば……。これを知るには九鬼周造の名著『「いき」の構造』を紐解くにしくはありません。
──「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。そうして、第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定している。──
これは落語の題材でおなじみの、色気、侠気(男意気)、(ものごとの結果を)受け入れ、という姿をあらわしているように思えます。
なかでも九鬼周造が「民族的、歴史的色彩」と解析した第二の「意気地」と第三の「諦め」を分析した部分は、そのまま(江戸)落語の真骨頂を示しているようです。
──「いき」のうちには、江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されている。江戸児の気概が契機として含まれている。野暮と化物とは箱根より東に住まぬことを「生粋(きっすい)」の江戸児は誇りとした。「江戸の花」には、命をも惜しまない町火消、鳶者は寒中でも白足袋はだし、法被一枚の「男伊達」を尚(とうと)んだ。「いき」には、「江戸の意気張り」「辰巳の侠骨(きょうこつ)」がなければならない。「いなせ」「いさみ」「伝法」などに共通な犯すべからざる気品・気格がなければならない。──
「諦め」はというと……、
──運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。「いき」は垢抜(あかぬけ)がしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟洒(しょうしゃ)たる心持でなくてはならぬ。(略)つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜した心、現実に対する独善的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍(てんたんむげ)の心である。「野暮は揉まれて粋となる」というのはこの謂(いい)にほかならない。──
思弁的な文章ですが、ここに顔を出している「江戸の意気張り」「辰巳の侠骨(きょうこつ)」「垢抜(あかぬけ)」などの言葉は見事に(江戸)落語の本質をついています。粋は江戸情緒そのものなのです。なるほど確かに落語世界を、またそれを語り継いでいる噺家さんが粋を体現して大事にするわけです。
知識だけの頭でっかちでは粋は身につきません。噺家さんは前座、二つ目、時には真打になっても先輩たちからきつい(!?)教えを受けて身につけていったのです。こんな挿話が目にとまりました。それは、談志師匠のお供でアフリカに行った時のことでした。
──見たこともない、食べる作法も解らない料理がズラリと並びました。ここで私はうっかり言ってしまったのですね、「これ何ですか」と。とたんに談志のカミナリが落ちました。
「喰ってから尋(き)け。食い物に決まってるじゃねえか」
そのとおりです。まず食べてみて、それでも分からなければ、その時点で尋けばいいのです。いきなり尋くのは連れてきた人、作ってくれた人に失礼この上もないのです。──
こんな挿話もありました。ある若手売れっ子の噺家が噺家たちの集まりに遅れて来た時のことだそうです。
──コソコソ頭を下げながら入ってくりゃよかったんでしょうが、そこは売れっ子の自負、さっそうと入り、自分の席を探したそうです。ところが自分の席が見つかりません。あっちへウロウロ、こっちへウロウロ、ついに先輩真打に席を空けろよという目つきをした時、時の会長に一喝されたそうです。
「ぐずぐずしねえで、空いているところへ座れ。てめえの座ったところが下座だ」──
真剣勝負を生きている噺家さんの気合いが感じられます。さしずめその売れっ子は「粋」を通り越して「いい気」になっていたんでしょう……。どちらも粋の対極の野暮の極みというしかありません。
このような教えの中で噺家さんたちは粋を身につけます。そして、落語の中に出てくる“了見”や“気働き”ができるようになる、それが一人前ということなのです。
読むほどに楽しくなって、笑いながら今まで知らなかったこと、誤解していたこと(たとえば、くだらないや江戸前の語源やお焼香の数など)に気づかせてくれます。読むと落語がもっと楽しくなるだけでなく、自分たちの立ち居振る舞いにもちょっと気をつけたくなる生き方指南のような1冊です。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。政治経済・社会科学から芸能・サブカルチャー、そして勿論小説・マンガまで『何でも見てやろう』(小田実)ならぬ「何でも読んでやろう」の二人です。
note
https://note.mu/nonakayukihiro