この『鬼の蔵 よろず建物因縁帳』は、テレビドラマにもなった『猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』シリーズの著者、内藤了さんの作品です。
本書の主人公は、広告代理店に勤める高沢春菜(名前は、はるな、ではなく、はな、と読む)。
彼女は、本来、博物館や資料館の展示プロデュース担当の部署に所属しているのですが「若くて熱意のある担当者を使い捨てる」という、悪い噂の絶えない設計事務所の所長、長坂に呼びつけられて、ある旧家の蔵の保全に関わることになります。
「道の駅として再開発したい」ということだったのですが、山深い寒村にある現地を訪れてみると蔵の土戸には明らかに人間の血で「鬼」という文字が描かれていた。密やかに描かれたものではなく、もはや生命はないだろうと思われるほどの血。血痕の太さは、そう、人間の腕ほどもある。
この土戸が文化財に指定されてしまったために、開発の話がこじれているのですが、屋敷の空気もおかしい。いったい、この土地ではなにがあったのでしょうか。
春菜は、現地で出会った仙龍という男に導かれて蔵の床下を確認します。するとそこには、札らしきものが残されていた。
実はこの蔵は約200年前に移築、「曳き屋」されていて、その工事を担当した当時の職人たちによるサインが記されていたのでした。サインの意味は「因縁物件」。「手をつける場合は気をつけろ」という意味だと、春菜は知らされます。
そんな古い印は、迷信として一笑に付して開発してしまえばいい。クライアントの長坂ならば(厳密にいうと受注はまだ請られていないので、クライアントでさえないのですが)、そうすることでしょう。
ですが現地を自分の足で踏み、鬼の字を自分の目で確かめた春菜は、そうした因縁物件を専門とする業者を探し、蔵の謎に入りこんでいくことになります。
世の中はずいぶん変わりましたが、今の人も昔の人も、この日本という物理空間で暮らしていることには変りはない。この「土」の上で泣き、笑い、生きているという事情はまったく同じです。
だからその意味では、昔も生活も今の暮らしも、土を通じてそのままつながっていると言える。ただそれは必ずしも、いいことばかりとは限りません。その土地や建物に結び付けれられた「因縁」もまた、つながっているということですから。
小説の中でも語られますが、建築関係の人が、今でもきちんと地鎮祭などを執り行うのは、彼らの仕事が土地にまつわるものである以上、必然のことなのかもしれません。
建物の因縁は本当にあるのでしょうか。私は、昔、山梨県の「秘湯」と呼びたくなるような山深い温泉で、職人さんから話を聴いたことがあるのですが、やはり業界で有名な物件は、あるそうなんです。
その人も、世田谷区に建てられたあるアパートの工事を担当したのだそうです。そのアパートは、見た目はごく平凡な、なんの変哲もない建物なのに、改築しようとすると担当者に事故が続発する。
私が出会った人は、そういうことを信じない性質だったそうで、自分が引き受けたところ、やはり事故に遭い、杖が離せない身になってしまったのだそうです。
実はその温泉は、古くからそうした重い外傷に効くとされ、かつては相撲の横綱も傷を癒やすために訪れていた湯だと伝えられていました。
そのアパートになにがあったのかはわかりません。しかし戦後につくられたアパートでさえも、不可解な「偶然」が積み重なるのであれば、山深い土地、麻しか産業がないような厳しい土地で、もし、近代の光に照らされず、密やかな闇の伝統が残されていたら。どれほどの怨念がその場に煮えたぎり、訪れる人を待ち構えていることでしょうか。
内藤さんのこの小説の魅力は、この因縁の謎を解くことにあるのですが、その世界観はさらに深い。
どうしようもないほど固く結ばれた因縁は時として、その土地や人、歴史、関わるすべての事象が、もはや昇華をのぞむ。そして人の利害や欲望といった小さな混乱を乗り越えて、大きな流れを形づくっていく。
春菜はいつしかその流れの中にどっぷりと首まで浸かり、日本の建築の世界に息づいてきた古い伝統にたどり着く。待ち受けるものは浄化か、因縁の闇か。日本の山村で起きた「鬼」の秘史に、代理店勤務のOLである彼女が、直面します。
読み終えた時、きっとあなたは、彼女の爽快な活躍をもっと見てみたいと感じることと思います。そして、私たちは忘れてしまいがちですが、中世的な闇はほんの少し前まで、この国の山深い土や水に残されていた。それでも人は一生懸命に暮らしていた。そのことに思いをはせることになるでしょう。
レビュアー
作家。1969年、大阪府生まれ。主な著書に〝中年の青春小説〟『オッサンフォー』、 現代と対峙するクリエーターに取材した『「メジャー」を生み出す マーケティングを超えるクリエーター』などがある。また『ガンダムUC(ユニコーン)証 言集』では編著も手がける。「作家が自分たちで作る電子書籍」『AiR』の編集人。近刊は前ヴァージョンから大幅に改訂した『僕とツンデレとハイデガー ヴェルシオン・アドレサンス』。ただ今、講談社文庫より絶賛発売中。