以前、「大過なく勤めさせていただくことができました」というサラリーマン退職の常套句に、かみついたことがあった。
「大過なく」という言い回しには、終身雇用が当たり前だった昭和の労働者のメンタリティが投影されている。入社から退職まで、波風立てずに過ごしていれば、安定して給料がもらえて、確実に昇給していった時代、サラリーマンは「大過なく」過ごすことが第一だった。
だが、現代はそんな時代ではない。サラリーマンでありながら個人事業主であるような、そんな心持ちを持たねばならない──。たしか論旨はそうなっていたはずだ。
論に説得力を持たせるために、有名メディアか、有名企業か、知識人か、有名人か、そういう団体や人の口を借りて語っていたはずである。だが、真に語っていたのはこの私であった。当時の私はむろんサラリーマンではなく、その経験もなく、サラリーマン事情なんかまるで知らなかった。要は、まったくの門外漢だったのである。そういう人間が、書物か取材か、なんらかの方法でこのジャンルの知識を得て、付け焼き刃で語っていたのだ。(念のため言っておくと、この記事にはどこかにクレジットがあったはずなので、いわゆるゴーストではなかった)
何が言いたいかというと、このテーマは誰だって語れるということだ。あなたがふむふむと読んでいるその記事を作ったのは、かつての自分みたいな青二才かもしれない。本書のテーマである「ビジネスをつくる」も同じである。誰にだって語れることだ。とはいえ、これは断言できるが、嘘は含まれていない。したがって、内容を鵜呑みにしてもなんの問題もないのだ。ただ、なんか嫌だな、という気持ちはぬぐえない。たぶん近親憎悪みたいなものだろう。
それゆえ、本書のタイトル『ビジネスをつくる仕事』をはじめて見たとき、私が最初にとった行動は、眉に唾をつけることだった。この本は、かつての自分みたいな青二才の仕事かもしれないぞ。まずはそれを疑ったのである。
結論から言おう。この本はそういう本ではない。本書の著者は、三井物産に籍を置きながら、今やお台場の名物になった大観覧車の設立や、ライフネット生命の立ち上げに重要な役目を果たした人。まさに、「ビジネスをつくる」仕事に数多く携わってきた人だ。本書は、彼の経験と知識が述べられた、付け焼き刃ではない本である。真に「ビジネスをつくる」仕事がしたいと考えているなら、本書はまさに値千金、かならず得るものがあるはずだ。
この本は信じられる本だ。私は早い段階でそう確信した。
理由はいろいろあるが、もっとも大きかったのは、次の1文が記されていたからだ。
「焦って無理筋のビジネスを立ち上げるよりも、何もしないほうがまし」
これは半可通には絶対に言えないことなのである。だって、「何もしない」んだったら、この本を読む必要はないんだよ。そんなこと、言えるはずないでしょ普通。
本書でもふれられているが、ビジネスの成功なんて、半分あればいいほうである。3割打てれば強打者なのだ。失敗例のほうが圧倒的に多い。ビジネスに失敗すれば多額の損益をこうむる。大量のマイナスを作るぐらいなら、何もしないほうがいい。きわめてまっとうな考え方だ。
本書は語っている。閑居して不善をなさない精神力が肝要だ。一般に、ビジネスをつくる仕事を得意とする人はこれを苦手とするとも言っている。とくに強調されているわけではないし、おそらくはこれを述べた著者自身、そんなに重要なところではないと認識していると思うが、本書がホンモノかどうかの試金石は(少なくとも私にとっては)ここにあったのだ。
この1文あるがゆえに、私はすっかりこの本を信用した。その主張を受け入れることにした。いい本だなあ、と思った。示唆に富む文章が、あちこちに記されている。例もとてもいい。本書のテーマに結びつかないような表現が、本のあちこちに数多く見受けられる。たとえば、第2次世界大戦の日本軍の話が出てくるが、そんなの「ビジネスをつくる」にはほとんど関係がない。だが、本書ではそういうたとえが頻出するのだ。
著者が専門バカでない証拠である。たぶん、こういう人だから多くの人を動かすことができるんだろう。言うまでもないことだが、それができなければ、ビジネスは成功しない。
参考になる記述はたくさんあったが、ひとつだけ、もっとも印象的だったものを引用しよう。
企画書は「ポルノ小説を書くように」書くべきだ、というものだ。
企画書を読む人は、投資しようか、一緒にリスクを負ってビジネスをしようかなど、現実のアクションに基づく達成感を得ようとしている。断じて、抽象的な議論やロマンティックな心情変化を楽しもうとしているのではない。それはポルノ小説の読者の態度に近いのだ。
なるほどなあ、と思った。今後は自分も、ポルノ小説を心がけて企画書を作るようにしよう。
もうひとつ。これは声を大にして言っておきたい。
ビジネスなんて、そうそう成功するもんじゃない。忘れるな、三割打てれば強打者なのだ。百発百中なんてあり得ないのだ。
本書ではビジネスの極意は「よく見て、どこでもやる」だと書いている。そのとおりだと思う。もっとわかりやすい言葉で言うと、たぶんこういう言葉になる。
「ヘタな鉄砲も、数撃ちゃ当たる」
それをかみしめた上で、本書を手にとってもらいたい。この本には、ヘタな鉄砲を当てる方法も書いてあるし、そしてなによりここが重要なのだが、はずしてしまったときに対処する方法も、記してある。
レビュアー
早稲田大学卒。書籍編集者として100冊以上の本を企画・編集(うち半分を執筆)。日本に本格的なIT教育を普及させるため、国内ではじめての小中学生向けプログラミング学習機関「TENTO」を設立。TENTO名義で『12歳からはじめるHTML5とCSS3』(ラトルズ)を、個人名義で講談社ブルーバックス『メールはなぜ届くのか』『SNSって面白いの?』を出版。「IT知識は万人が持つべき基礎素養」が持論。2013年より身体障害者になった。