柳澤協ニさん(元内閣官房副長官補)が代表、伊勢崎賢治さん(東京外語大教授)、加藤朗さん(桜美林大学教授)が呼びかけ人を務めている「自衛隊を活かす:21世紀の憲法と防衛を考える会」による現行憲法下での自衛隊の可能性を探った論考が16本収録されています。執筆者は上記の3人を含んで12名、どれも力作です。
自衛隊という組織・役割の機能を踏まえた現状分析と提案が収録されています。
──「専守防衛」というのは非常に政治的な言葉であって、軍事的な言葉ではありませんでした。軍事としての言葉としては「戦略守勢」などが使われます。しかし、専守防衛は、政治的なメッセージとして現代に生きているのではないかと思います。──
安倍首相がオバマ大統領が検討していた核兵器の先制不使用政策について、みずから反対の意向を伝えていたことが報じられました(後に否定する報道がなされましたが)。ここには「抑止力」というものをどう考えるかといういい例があります。
安倍首相(政府)は北朝鮮の核開発が続けられている中では先制不使用政策は核の抑止力を弱めると考え反対しました。これは「抑止力」というものを「政治的に正しい判断」をしたとことになるのでしょうか。この本に次のような一節があります。
──冷戦の時代には、米ソの直接の戦争が抑止されていたということは、認識としてあったと思います。(略)報復しあっているうちに、エスカレーション・ラダー、つまりはしごを登っていくかたちで最後は核の撃ちあいになってお互いに滅んでしまう、そういう相互確証破壊の恐怖によって手が出せない状態にあったということです。それが抑止力だと説明されていた。──
私たちは今でも「抑止力」をこう考えているのではないでしょうか。では現在この「抑止力」は北朝鮮の核開発を止めることができているのでしょうか。なにを「抑止」できているのでしょうか。
日本は核について相反するふたつの顔を持っています。ひとつはいうまでもなく、唯一の戦争被爆国として、核兵器の廃絶を国際社会に訴えている顔です。と同時に日米安全保障条約で米国の「核の傘」に依存しているのも確かです。ここには矛盾をきたす「政治的判断」があるというべきです。なぜそうなるのか。それは「防衛政策というものを抑止力だけで考えている」からです。ですから核兵器の廃絶という姿勢を強く打ち出せないのです。
考えてみれば先制攻撃ができるということが抑止力ではありません。先制であれ報復であれ、いかなる攻撃も相互の全的な破壊に終わるという「共通認識」が抑止力の本質でした。しかしその「抑止論」も無効になっているように思えます。ですから先制不使用政策がかえってプラスの「外交的(=政治的)」影響力を持つことがあると考えるべきなのではないでしょうか。
先制攻撃はいつも自衛の名の下に行われてきました。侵略もまた自衛、自存の名の下に行われてたのが歴史的事実です。ブッシュの誤った戦争もそうでした。結果、大量破壊兵器などはどこにもなく、ブッシュとそれに賛同した諸国がイラクを破壊し“イスラム国”を生んだのです。自衛も自存も平和も、いかなる名目であろうと戦争は戦争です。破壊は破壊です。政治家は軍隊の指揮者である前になすべきことがあるはずです。
この本ではもうひとつ興味深い指摘があります。それは「日本はもはや世界の大国でもなければアジア随一の大国でもない」とういう認識です。これは頭では分かっているつもりでも感情や過去の栄光(?)に目がくらんで、認めてられない人がけっこういるのではないでしょうか。過去の栄光とは戦後の経済成長ではありません。戦前の大日本帝国のことも含まれています。
──世界の国家を見渡すと、大国、中級国、小国の三つに大別できます。大国は経済的、軍事的そして政治的に卓越した影響力をもち国際秩序を形成する能力のある国です。現在はアメリカと中国の2カ国です。中級国は国際秩序を形成する能力はないが現行の秩序を維持する能力のある国です。EU諸国やカナダ、オーストラリア、ロシア、日本などG8やG20に加わる国々がおおよそこの範疇に入ります。小国は国際秩序を形成することも、維持することもできす、ただ現行の国際秩序に追随するだけです。発展途上国の多くは小国と呼んでいいでしょう。──
そして「日本の安全保障政策は、日本が国際秩序を維持する能力しかない中級国であるということを踏まえた上で立案」されなければならないと続けています。「国際秩序を形成する能力」がない中級国の“積極的平和主義”とはいかなるものかじっくりと考えて見る必要があります。執筆者のひとり、加藤朗さんはこのことを踏まえ「安全保障環境が激変したからこそ、原点に戻って専守防衛に徹するべきだ」と記しています。傾聴に値すると思います。
──ちなみに専守防衛の名称が外交戦略として使用されたのは1971年の佐藤栄作内閣の時です。当時中曽根康弘防衛庁長官は「非核中流国家論」を唱えました。それは日米安保体制と一体化した自主防衛という総合戦略です。ところが佐藤首相は「中級国家」という表現を嫌い、「非核専守防衛国家」に修正したというのです。(略)経済力だけでなく、当時の安全保障環境を見るかぎり、日本を中級国家と見なすことは政治家とりわけ佐藤首相には承服しがたかったのでしょう。──
加藤さんは、この佐藤首相の心理的背景に「戦前の大国としての栄光」を知っていたからだと付け加えています。ちなみに佐藤の兄の岸首相は、自分の最高傑作は満洲国だといっていたくらいですから、彼らが大日本帝国の栄光に惹かれる気持ちは大きかったのでしょう。(甥で孫でもある安倍首相にもその思いがあるのでしょうか)
“大国意識”を持っていた、大日本帝国は本当に大国だったのでしょうか。対外膨張策をとっていた大日本帝国に対して、その軍拡路線の元凶である「帝国主義」的国策を否定した「小日本主義」というものもあったのです。軍国主義・専制主義・国家主義からなる「大日本主義」に対し産業主義・自由主義・個人主義を柱としたその論は三浦銕太郎、石橋湛山によって主張されました。この小日本主義は経済・社会政策であると同時に安全保障政策としても考えるべきなのではないでしょうか。ともあれ、国際貢献という大義名分の後ろに“大国意識”がないことを願うだけです。
国家は対外的な要因だけでは崩壊することはありません。国内的な諸問題が致命傷になるのです。ですから国内の矛盾、諸問題を対外的な併合、侵略で解消しようとした旧大日本帝国は遅れた帝国主義の方針とあいまって崩壊したと考えるべきなのではないでしょうか。これは同時に安全保障の失敗例としても検証する必要があります。
この本は日本の背丈・実力にあった安全保障とはなにかを考える際の基本文献です。具体的な自衛隊の戦力分析、その有効性・無効性、また2013年に閣議決定された防衛計画大綱の誤りなどについても詳細に語られています。読み応えのある1冊です。
レビュアー
編集者とデザイナーによる書籍レビュー・ユニット。
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