この小説の主題は「新聞記者の魂」です。
新聞記者を主人公にした作品は、昔から数多い。職業そのものがミステリーに直結する警察官は別格として、新聞記者は弁護士、医師、教師などとならんで「物語になる仕事」の王道とも言えるかもしれません。
考えてみれば、はるか遠い異星から漂着した超人が、地球で職業として選んだのも新聞記者でしたし、究極のメニューを追い求める、父との確執を抱えた男の職業も新聞記者でした(あまり仕事熱心ではなかったようですが)。
描かれることが多いだけに「記者作品」には名作も多く、ウォーターゲート事件を扱った1976年の映画『大統領の陰謀』などはその古典と言えます。
一方、ご自身も新聞記者であった本城雅人さんによる『ミッドナイト・ジャーナル』は、デジタルメディアが台頭した現代だからこそあらためて「記者の魂」を問う、生々しい迫力を持った作品です。
物語の中心となるのは中央新聞の記者、関口豪太郎。本社勤務で警視庁捜査一課担当だった彼は、女児を対象とした連続誘拐殺人事件で、結果的に被害者家族を巻き込む誤報を打ってしまう。事件後、彼自身は地方支局へ飛ばされ、報道に関与した当時のデスクや班の後輩記者ふたりも、あるいは主流からはずれ、あるいは整理部に異動することになりました。
しかしその7年後。再び児童誘拐殺人が起こる。さいたま支局に転任していた関口は、そこにかつての事件と関連を感じます。
あの時の誤報は確かに誤報でした。それにより家族を傷つけてしまったことの悔いは、関係者それぞれに心に刻んでいます。しかし彼らが全力で行った取材と報道は、すべてが間違っていたのか。もしかすると重大な「真実」にたどり着く端緒に立ちながら、それを見逃してしまったのではないか。
であるならば、中央新聞というメディアは、当時の報道で、誤報だけではなく、もうひとつ大きな過ちを冒していたことになる。
それは「真実の端緒に迫りながら、そこで歩みを止めてしまった」という過ち。もし取材を止めず真実にたどり着いていたなら、新たな事件と悲劇の発生を、未然に防いでいたかもしれない。
犯罪の捜査は警察の仕事です。そしてもし記者が警察の発表をただ流すだけの職業であれば、真実が埋もれてしまったとしても、警察の怠慢や無能を批判していればいい。しかし「記者の使命は、誰よりも早く真実を知り、それを正確に読者に届けること」というプライドを持つ関口のような記者は、そのようには考えません。
警察は、誤った可能性がある。もし誤ったとしたら、それは同時に真実に迫ることを怠った自分たち記者の責任でもある。
これは口先だけのきれいごとではありません。夜になってからが仕事は本番。仕事は終わったと見せかけてライバル記者たちを油断させ、深夜まで取材相手を回る。朝は早朝に飛び起きて他紙を確認。スクープを抜かれていないことを確認してやっと安堵する。こんな明け暮れを送り、むしろその重圧の中でこそ生きがいを感じる、ある意味、異常な本能の持ち主たちの言うことです。
司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』で、第8師団を率いた中将、立見尚文が援軍を受けたことを「恥」とした逸話が語られ、助けられることを恥と感じるくらい強烈な本能の持ち主でないと軍の指揮という任務は務まらないのかもしれないと言われますが、第一線の記者たちも、これに似ています(まったくの余談ですが、そういえば司馬遼太郎氏も新聞記者の出身でした)。
その美学は、もはや合理主義や効率では測ることができない。もし他紙にスクープを抜かれたとしても、Web版で追加すればいいだけではないか。そもそも速報したからといって、読者が新聞に速報性を求めているのか、どうか。現代ならば、そんな風に「合理的」に考える新人もいることでしょう。
記者たちがプライドを賭ける「速報」は、素人がSNSに投稿した情報に負けることがある。情報の海に囲まれた現代では、報道機関の意見は、会社の看板に隠れた無記名の「マスゴミ」として白眼視され、ネットで公開される「個人」の意見のほうが、信頼を集める傾向がある。
一般社会だけではなく、新聞社に入社してくる新人ですら「ほかより早く載せたからといってそれがなにになるんですか」と平気で言う時代になった。
確かに現代では「早く、正しく、読者に届ける」といっても、それはもはや虚構の美学なのかもしれません。しかし、記者たちがそうした「大いなる虚構」を目がけてぎりぎりのところでしのぎを削り、他紙を出し抜こうとせめぎ合ってこそようやく到達できる領域もあるはず。
記者たちの血と汗で動くこうした「新聞」という営みが、もしもその本能を失ってしまったら。
ネットのニュースといっても、その元は伝統的なメディアがソースになっていることが多いです。個人のブログの場合、誤報でも炎上しても、記事を削除して逃亡するという逃げ道もある。しかし新聞はそうはいかない。
「1984」の作者ジョージ・オーウェルは「ジャーナリズムとは報じられたくないことを報じることだ。それ以外は広報に過ぎない」と語っていましたが、もし新聞を支えている記者たちの「誰よりも速く真実を知り、それを読者に届ける」という本能が失われてしまったら、この世はただ流したいだけ、流して差し障りのない「情報」だけが、「真実」にとってかわって流通することになることでしょう。
かつては記者は花形の職業であり、新聞も「社会の木鐸」「第四の権力」と、その意義が「当たり前の常識」として疑われることはありませんでした。
しかし関口たち本作の記者は、現代の時代背景を踏みしめてなお、自分たちの仕事には大切な使命があると考えています。その姿からは、理想が揺らいだ今だからこそ際立って見える、凄まじいリアリティが伝わってきます。
現代では対人関係の技術も洗練され、「空気を読む」能力が重視されるようになり、他者とぶつかることも少なくなりました。しかし本作で描かれる記者たちは、嫉妬も羨望も優越感も自己満足も、感情がダダ漏れ。一般社会では考えられないくらい、平気で生の感情をぶつけあう。
しかし、それくらいブレーキがぶっ壊れていないと、警視庁担当などという仕事は遂行できないでしょう。プレスリリースを参照し、記者会見で質問すればいいという領域ではたどり着けない。彼は、「話したくない」「話しではいけない」という口をこじあけるのが仕事です。コミュニケーション能力を発揮して広報と仲良くすればいいというものでもない。普通の社会人としての本能がぶっ壊れたくらいで、ようやくモノになる、という領域なのでしょう。とぼしい私の経験でも、こうした記者たちの姿は恐ろしいほどリアルだと思います。
関口豪太郎は「普通の本能がぶっ壊れた」という意味で「記者の中の記者」というべき優秀な人物ですが、しかしあまりに突き抜け過ぎていて、ライバル紙どころか同じ社の記者からすらも反発を買うほど。
いくら記者といえども会社員ではあるわけで、少しは大人にならなければならないのですが、そんなものは目に入らない。それだけ記者の仕事が性に合っていて、好きで、とりこになっているのでしょう。
ただ面白いのは、彼に反発する上司や同僚と言えども、現場第一線の記者だったことは間違いありません。それゆえ「スクープが正義」という本能を持つことでは、豪太郎と同じ種族です。だから彼の仕事はどこか認め、畏れざるを得ないところがある。しかしその分「人事」という会社員の論理の方で報復することになるのですが。
記者たちによる懸命な取材の果てに、事件はやがて真実を明らかにしていきます。注意しなければならないのは「真実を明らかにすること」と「犯人を見つけること」とは似ているが違う。この物語の記者たちは、あくまで自分の仕事を全うします。それが彼らのプライドと倫理でした。
本当は、典型的な日本の湿気漂う風土を扱いながら、わかりやすい展開を選ばず、お涙頂戴な展開を拒否するかに見える、驚くほど硬骨な筆致。その一方で作品から伝わるのは、すべての職業にあるはずのプライドと倫理に対するロマンティックと言っていいほどの信頼。
飲めない酒を必死で飲んで相手の懐に転がりこんでおきながら、もしそこで「なあなあ」の関係になってしまえばその瞬間に癒着がはじまる。取材対象とはあくまで対等として、時に捜査関係者に激しく抗議することも辞さない豪太郎の姿勢。
群像劇として描きわけられる、記者たちの緻密で緊迫に満ちたやりとりなど、この小説については語りたいことがいっぱいあります。
しかしこの原稿もネットの記事。紙と違って字数の制限がないネットでは、凡庸な書き手が書くと、かえって焦点がぼやけてしまうことも「あるある」です。私ごとき書き手は、あえてここで筆を止め、あとは「面白いから、ぜひ読んでください」とお勧めするにとどめます。
レビュアー
作家。1969年、大阪府生まれ。主な著書に〝中年の青春小説〟『オッサンフォー』、 現代と対峙するクリエーターに取材した『「メジャー」を生み出す マーケティングを超えるクリエーター』などがある。また『ガンダムUC(ユニコーン)証 言集』では編著も手がける。「作家が自分たちで作る電子書籍」『AiR』の編集人。近刊は前ヴァージョンから大幅に改訂した『僕とツンデレとハイデガー ヴェルシオン・アドレサンス』。ただ今、講談社文庫より絶賛発売中。