本書は、実は意外と新しい「観光」という概念の歴史と、この国におけるその栄枯盛衰をたどる一冊である。えっ、観光ってそんなに衰退しているの?と驚く人もいるかもしれないが、落ち着いて周りをよく見渡してほしい。もしくはここ数年間の自分自身の行動を振り返ってみてもいいだろう。コロナ禍による自粛期間は過ぎ去ったはずなのに、どうしてこんな内向きな人間になってしまったのだろう……と改めて首をひねる人も少なくないはずだ。
つまり観光するお金がないから、あるいは時間がないから、観光を「したいけど、できない」のではない。そもそも「観光すること」自体に意義を見出せない人びとが、世帯年収が低くなるほど増加していく傾向が、ここには表れている。
(中略)
つまり男女ともに、二〇代から三〇代が国内旅行に最も消極的な世代である、といえる。
日本の「観光離れ」にとって、高齢化は大きな問題ではない。むしろ国内旅行に積極的なのは高齢者である一方で、この社会の未来を担う若い世代のほうが「観光離れ」の傾向を強めているのである。
本書前半では、観光事業に携わった国内外の重要人物たちと、その理念や概念が紹介される。戦前の鉄道省「国際観光局」に勤め、観光事業の第一人者となった井上万寿蔵。19世紀初頭に英国イングランド中部に生まれ、世界最大の観光企業グループを創業したトーマス・クック。1930年代のフランスで、国策としての「バカンス法」を整えた社会運動家出身の国務大臣L・ラグランジュ。第二次大戦後に提唱され、世界各国に広まった「ソーシャル・ツーリズム」という新たな理念……。その歴史の新しさ、「観光」という概念を受け入れるまでの民衆心理の紆余曲折に、多くの読者が新鮮な驚きを感じるのではないだろうか。
観光とは人が日常生活圏を離れ、再び戻る予定で、レクリエーションを求めて移動することである
さらに、著者は「旅」「旅行」「観光」といった言葉の棲み分け、関係性についても、読者に改めて考えさせる。詳しくは本書でじかに触れてもらうとして、その一部を紹介しよう。この3つの語のうち、どれかが好きなら……あるいは3つ全部をこれまで並列的に捉えていた人なら、やはり興味を惹かれるはずだ。
すなわち観光とは、旅行と同様に「それ自体が目的となり得る自己充足的な移動」、いいかえれば「楽しみのための移動」を主に意味しつつも、その移動を個人のミクロな水準だけでなく、社会や国家のマクロな水準において対象化し、とくにその社会的な効果や機能に着目するときに使用された語と考えられる。
旅行にはなく、観光にはあるのは、この社会性の視点である。とくに政府や自治体や事業体が対象化し、その施策を検討したり、事業活動を試みるとき、旅や旅行よりも観光という言葉が使用される場合が多い。
(中略)
こうして日本には旅、旅行、観光という三つの言葉が併存するが、それぞれが自律的に、あるいは排他的に独立した三つの概念ではなく、また旅→旅行→観光と段階的に発展していった進化の関係にもない。三者は互いに重なり合い、また文脈に応じて対比されたり、互換されたりして、使用されてきたと考えられる。
高度に理解されて日本へ導入されたはずのソーシャル・ツーリズムの理念だが、「国民旅行」といいかえられた結果、「ソーシアル・ツーリズム研究部会」がまとめた四点の施策のうち、[一]観光教育、[二]旅費支援策、[三]有給休暇の法制化の三つは具体的な成果を上げられないまま棚上げされ、[四]施設の建設だけが猛烈な勢いで実現されていったことになる。こうして観光の社会的機能を活用する「上から」の施策は、社会の統合も世界の平和も切り離し、国民がそれぞれ私的におこなうだろう旅行のための宿泊施設を建設する、という一点に収斂(しゅうれん)していった。
現在、日本は「観光する人」と「観光しない人」に分断されてしまっている。どちらかに優劣をつけたいわけではないし、時期によって相互に意識の乗り換えはあるだろうから、どちらの生き方を選ぼうが構わない。しかし、それがなんらかの対立要因になるのだとしたら、間違った相手に反感の矛先が向かっていることは明らかである。
いかなる二極化であれ、それを放置すれば格差を拡大させ、社会の分断を深刻化する。この傾向がさらに進行すれば、海外に一度も行ったことがない、世界のことを知らない大多数の日本人と、一年のうちに何度も海外を旅行して、さまざまな土地で多様な経験を重ねる少数の日本人に、ますます分かれていくことになる。かつて社会の統合に役立つことを期待された観光が、いまの日本では、社会を分断する要因になりつつある。
繰り返しになるが、観光は誰も自然にはできない。それは楽器の演奏や語学の習得に似て、あるいは料理や運転やスポーツなどと同じように、生得的にできる行動ではなく、一定のトレーニングと、適切なスキルが求められる社会的行為の一種である。







