著者の冨島佑允氏が本書で一貫して依拠するのは、「無裁定条件」と呼ばれる一つの原理です。平たく言えば「市場にタダ飯はない」という前提であり、リスクを負わずに利益を得られる機会(裁定機会)が存在すれば、市場参加者の行動によってその機会はたちまち消滅するという考え方です。この一点を軸に据えることで、DCFによる割引、先物の価格づけ、オプションの理論価格、そしてブラック・ショールズ方程式にいたるまでが、ばらばらの道具ではなく、同じ論理の地図の上に整然と並びます。
無裁定条件について、その原理原則の思考法の有効さを実感させてくれたのは、デリバティブの解説からでしょうか。
本書でも、デリバティブは難解で35歳をすぎて初めて接すると理解が難しいという「デリバティブ35歳限界説」という業界あるあるっぽいジョークから解説が始まりましたが、「無裁定条件の思考法が身についていればどうということはありません」とばかりに解説が進みます。
さらにはオプションとか、プットとかコールとか、聞いたことはあるけれども……みたいな単語が飛び交いますが、
金融数学の厄介さは、道具として使えることと、原理を理解していることが、長いあいだ別物として扱われてきた点にあると言えます。実務でCAPMを使い、VaRを計算し、ブラック・ショールズ式をツールに代入することはできる。今ならば、AIツールを使ったらそれらの式から何となくそんな感じと言う回答を得てわかったフリをすることは容易だと思います。
しかしその式がなぜそのような形をしているのか、どの前提が崩れたら信頼できなくなるのかを問われると、多くの人が口をつぐまざるを得ない。この本を読んで一通り身につけたら、詳しい式はわからないし書けないけど、どうしてこうなるのか理解っているというところに辿り着けると思います。
一方で、難易度については結構難しいレベルだと感じました。ブルーバックスというレーベルは一般読者向けの科学書として広く親しまれていますが、本書は同レーベルの中でも踏み込みの深い部類に入ります。前半のDCFや先物のあたりは、高校数学の素養があれば比較的追いやすいのですが、オプションのプライシングからブラック・ショールズの導出に差し掛かると、偏微分や確率過程の感覚が要求されるようになります。入門書ではあるけれど、「数学の負荷を最小化して最短で道具だけ手に入れたい」という読み方には、あまり向いていないと言えるでしょう。
何度読んでも一度では腑に落ちない箇所が出てくる、というのも本書の特徴です。しかし繰り返すたびに、うっすらと地層が積み重なるように理解が深まっていく感覚があります。式の変形を追うのではなく、その式が何を主張しているのかを意識しながら読むと、同じページが二度目以降は違う顔を見せてきます。
冒頭で小手調べ的に登場する牛すら金融商品になるという事実も、先物取引の話を経たあとですとより理解が深まります。
税別1200円という価格で、金融数学の設計思想をここまで体系的に提供する本は、実際に探してみるとなかなか存在しないんじゃないでしょうか。巷に溢れる投資入門書の多くが「使い方を教える本」であるのに対し、本書は「なぜそう動くのかを教える本」になると思います。
知識の深さという軸でいえば、この価格帯で得られる密度は相当なものであり、長く手元に置いて繰り返し参照するに値する一冊です。
数式と格闘、するしかないですよ!








