巨大な学問、博物学
たとえば、日本にはあまたの大学があり、「いったい何を学ぶんだろう?」といぶからずにおれないような学科も多数存在します。にもかかわらず、博物学部あるいは博物学科がある大学は一校もありません。博物学は、大学の研究スタイルに合致することができない学問なのです。
本書は次のように語っています。
「博物学」は、ナチュラル・ヒストリー(自然史)の訳語で、動物、植物、および鉱物の種類や性質を研究する学問のことをいう。現在でも自然科学の基礎として重要な役割を果たしている。
動物・植物・鉱物とは、この地球上に存在するものほとんどすべてです。すくなくとも、本書の主人公リンネが活躍していた18世紀においては、森羅万象に近いことだったでしょう。これらをすべて学び尽くすには人の一生は短すぎます。
博物学のブームとリンネの登場
一八世紀は博物学の世紀といわれるほどで、だれもが植物標本の収集に熱中していた。こうした状況はオランダやイギリスでも同様であった。当時の収集家たちは、動植物や鉱物の博物標本だけでなく、民俗資料や古代遺物など、目新しいものを片っ端から集めていた。(中略)
一八世紀には、ヨーロッパ列強の植民地経営が本格化してヨーロッパの外の世界の文物が大量に流入し、これが珍品収集熱をあおることになった。植民地経営のために設立された各国の東インド会社は、博物標本の収集も業務の一つとしていた。
リンネが求められたのは、そうした時代でした。自分が入手した植物が、どの系統に属し何と親戚なのか。新しい文物が続々と届けられる中で、人々はそれを求めました。リンネはその要請に応えたのです。
さらにもうひとつ、博物学流行の重要な要素がありました。リンネもまた、この要素に衝き動かされた人でした。
博物学者たちは、自然のすべてを知るために、命がけで未知の世界に出かけて行った。この博物学の情熱を支えていたのが、キリスト教信仰であった。神の創造した自然を理解することが、神自身を理解することになると信じられていた。近代科学は当初、キリスト教と一体だったのである。
「性の体系」――植物にセックスを見る
とはいえ、そのことはいささかも本書の価値を減じるものではありません。むしろ、貴重な視点を提供してくれる書物であると言っていいでしょう。
本書は、思わず「えっ、そうなの!」とつぶやかずにおれないような記述に満ちています。たとえば、次のような箇所です。
われわれ日本人は、子供のときから「雄しべ」「雌しべ」という言葉に親しんでいるので、植物にも動物と同様に性のあることが、ごく自然のように思えてしまう。ところが、雄しべの原語(ステイメン)は糸の意味で、雌しべの原語(ピスティル)は乳棒(乳鉢で薬をする棒)の意味である。両者とも形によって名づけられているにすぎない。
生殖にセックスは不可欠である。
この視点が、のちに生物学を大きく進展させたことは疑いようもありません。現在でもとても重く扱われています。
読書は一般的な学問とは異なる楽しみをもたらしてくれる行為と考えています。その重要なひとつが、境界があいまいで、容易にジャンルの壁をまたぐことができることでしょう。18世紀ヨーロッパの社会状況と、自然科学にまつわる知識を同時に得ることができる本書が、バカでかい領域をいっぺんにカバーしていることは、言うまでもありません。








