しかし、こんなに人に身近であり、話題に事欠かない微生物であるにもかかわらず、大気微生物について本格的に研究が始まったのは21世紀に入ってからです。それまで、病原菌による空気感染について知見はあったものの、通常の大気に浮遊する微生物については、数も種もほとんど議論されませんでした。これは、微生物を詳しく調べる技術が不十分であったこともありますが、そもそも大気中を浮遊する微生物が、地球全体の微生物量に占める割合が極小だからです。
(中略)
ところが実際には、人が日常的に触れて影響を受けるのは、土壌や海洋の微生物よりも、圧倒的に大気中の微生物です。我々の呼気を通じて体内を通過する微生物量は、繰り返しになりますが1日125万個です。漁業や農業に従事していなければ、日常生活で海洋や土壌の微生物を直接摂取するのはまれです。我々は大気微生物に包まれて生活しているため、大気微生物は当たり前の存在となり見落とされてきたともいえます。
もちろん、風邪や結核、コロナウイルスなど、空気感染する病原菌の存在を通して、私たちを取り巻く空気には微生物が漂っていることは広く認識されているだろう。だが、それ以外はどうか。実は知らないうちに大気微生物のもたらす作用を受け取っていることを、本書は教えてくれる。たとえば、雨の日の匂い。
雨の降り始めに土のにおいがするのも、微生物由来の成分が空気中を舞うためです。雨滴が土壌に当たると、土壌微生物が生成するゲオスミンという化学物質が放出されます。植物表面からも植物成分であるペトリコールなどが放出され、こちらもいわゆる「雨のにおい」の主成分とされています。こうしたにおい成分が雨滴ではじき出されるのであれば、微生物などの細胞粒子も同時に漂っているはずです。
空気に溶け込むほど小さく軽いということは、風に乗り、遠くまで旅することが可能だということでもある。彼らは最初から風のなかで生まれたわけではなく、「発生源」があり、そこからいくつかの手段を使って風に乗り、運ばれていく。その手段とは何か、どこまで行くことが可能なのか、それらの記述もまた興味深い。
ここまでみてきたように、大気微生物が発生する直接の要因は、風ではなく、「叩かれる」か「はじける」かです。森林の土壌や植物が雨粒に叩かれると、表面の微生物が空気中へと飛ばされます。真菌は高湿度になると胞子の弓なりの柄に水を蓄え、柄が直線になる反動で胞子をはじき飛ばします。砂漠では、風で飛ばされた小石が地面を叩き、粘土粒子とともに微生物が空気中に舞い上がります。海では、海面の表層膜マイクロレイヤーに生じた泡がはじけ、海水滴とともに微生物も空気中に放たれます。いずれの微小粒子も、一度空気中に上がると風にのって漂い続け、なかなか地表には落ちてきません。では、大気微生物は、どこまで上昇するのでしょうか?
ところで、雲はどのようにしてできるのでしょうか? 雲は水蒸気が集まった雲粒でできていますが、空気中で水蒸気が高密度に集まるだけでは雲にはなりません。雲粒ができるには、水蒸気が集まるための「核」が必要なのです。
(中略)
雲粒になる核としてはたらく粒子は、いまだすべては特定されておらず、雲の形成にはまだ謎が残されています。この謎を解く鍵として、近年、大気微生物が注目されています。
さらに、北アメリカ大陸上空7kmを浮遊する氷晶核を、飛行機内で捉え、その場で質量分析すると、氷晶核の30%が細菌や花粉などの生物粒子でした。また、アマゾン熱帯雨林の樹冠上空では、生物由来の有機物粒子が森林から放散され、氷晶核の60%から75%を占めます。こうした実際の観測結果から、微生物などの生体粒子が、実大気での氷晶核に占める割合は大きく、雲形成に強くかかわっているとみなされています。
大気中で水が豊富な環境というと、やはり雲になります。雲は水滴の集合体であり、その水滴の中であれば生物が増殖できるはずです。また、鉱物や海塩の粒子は、大気中の水蒸気が飽和すると、水を集め雲になりやすい性質をもっています。鉱物は土壌、海塩は海が由来なので、微生物も多く含まれ、雲は微生物のすみかになる可能性は充分にありそうです。
大気微生物への興味は、大気汚染への恐怖と切り離せない。そのメカニズム、影響範囲などについても、本書では詳しく述べられる。大昔から広大なスケールで世界中に影響を与えてきた「黄砂」から、東日本大震災以降に問題となった「セシウム汚染」まで、大気微生物が担う役割は想像以上に大きい。単なる「砂ぼこり」では済まされない複雑な物質・生物同士の相関関係がそこにはある。先日公開された映画『こんな事があった』(2025年)を思い出す人もいるかもしれない。
ところが、低レベルになった空気中の放射性セシウム濃度が一定濃度からなかなか減らず、むしろ夏に増えるという怪奇現象が起きました。セシウムを再飛散させる何らかの因子があると推測され、その探索がなされました。
(中略)
これを手掛かりに、汚染地域に生えるキノコの胞子を調べると、放射性セシウムが検出されました。さらに、1胞子あたりのセシウム濃度と胞子の数を掛け合わせたところ、ちょうど夏の大気中で上昇するセシウム濃度と合致しました。
汚染された土壌からキノコが放射性セシウムを吸収し、胞子として大気中に再飛散させていたのです。キノコの貪欲な同化力はしたたかであり、セシウムに限らず、様々な金属成分を土壌から飛散させる媒体になっていると考えられています。
マイクロプラスチック汚染の深刻な影響などは、おそらく多くの読者の想像を越えているのではないだろうか。読みながら思い出したのは、たまに田舎の道端などで見かける、風化してボロボロになったペットボトルの姿だ。それは「自然に帰っている」わけではなく、粉塵になって大気中に広がっている。そして、なんらかの微生物と手に手を取り合って、予想外のパワーを発揮しているかもしれない。何がどう作用して、どんな影響をおよぼすのか、その知られざる「大気の世界」を知ることが、人類の未来を左右するのだということをつくづく痛感させられる。
マイクロプラスチックはそのままだと人体への影響は大きくありませんが、太陽光照射によって劣化すると有害物質が放出されるようになります。たとえば、太陽光照射で劣化したポリエチレンテレフタレートから生じるテレフタル酸は、呼吸器系に障害を引き起こします。さらなる問題は、マイクロプラスチックに吸着している物質です。有機物であるマイクロプラスチックは他の有機物と親和性が高いため、有害な有機化合物であるPCB(ポリ塩化ビフェニル)、ダイオキシン、多環芳香族化合物なども、マイクロプラスチックによく吸着します。いずれも発がん性をもち、内分泌かく乱物質でもあるため、がんの発症や胎児発生時の性機能への影響が懸念されます。
もちろん微生物細胞も有機物なので、マイクロプラスチックに好んで吸着します。実際、大気中で見つかったマイクロプラスチックに微生物が付着しているのが顕微鏡で観察されました。このマイクロプラスチックは衣類の繊維片であり、アルプス上空で捉えられており、かなりの距離を風で運ばれたと考えられます。
火山噴火では、地中深くの地殻粒子も大気中へと押し出されます。深さ1km以深の地中にも、微生物が生息しており、メタンや水素を栄養に数ヵ月あるいは数年に1回の分裂速度で増殖します。このような微生物も、休眠して生命を維持できるなら、無機物しか存在しない惑星で粘り強く生命を維持できそうです。実は、宇宙からみて一番遠そうな火口や地底の微生物が、地球上では最も宇宙に近い生物なのかもしれません。







