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2025.08.22

レビュー

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人生は物語ではない──物語が過剰に要求される現代社会は何かがおかしい『物語化批判の哲学』

面倒くさそう……からの、深い気づきへ

いきなり本筋じゃないところから推させていただくが、「全大学受験生、読め!」の1冊だ。「もし自分が現代文の入試問題制作者であれば、絶対に使用するのに!」と思わせる、いい文章、いい展開、いい時代性。背伸びすれば理解できるくらいに難しく、でも間口は広くて敷居が低い。そしてポップ。マジでオススメ。(知的に)飛ぶぞ!

著者は、1994年(平成6年)生まれの分析美学とポピュラーカルチャーの哲学を専門とする難波優輝氏。「分析美学って何?」とか引っかかるのだけど、著者がいかなる人物なのか冒頭で分かる。
あらゆるところで「物語」がもてはやされている。私はそれが不愉快である。物語を愛しているがゆえに。
なんか、面倒くさそうな人!
たとえば「何かがおかしい」と思う物語として、著者はこんな例を上げる。
・「青春」のイメージそのままに、汗を光らせて走る高校生を描くポカリのCM。
・“推し”の成功譚を眺めるためにお金を注ぎ込むのを「美徳」として語ること。
・就職活動で語らされる「学生時代に力をいれたこと(=ガクチカ)」や挫折体験。
前2つは「放っといたれよ」と思うのだが、3つ目は「たしかに」と思う。
面接のために自己の過去を組み換え、ときに文字通りの作り話=フィクションを面接の場で語らされる。自己分析という名の強制物語化によってその者は、自己の予測可能性を他人のために用意することを強いられている。
あの就職活動の不快さは「面接官のために自分を物語化することを強いられる苦痛」だという指摘に、「そうそう」と頷く人も多いのではないか。そして読んでいくと「放っといたれよ」と思った前2つも、その感想をきれいにめくられてしまう。

でも「物語」は便利だ。めちゃくちゃ便利だ。
・誰かに理解を求めるとき/誰かを理解するとき。
・共感を求めるとき/共感したいとき。
・自分が何者かをはっきりさせたいとき。
物語以上に有効な手段を思いつかない。しかし現在、著者は「物語がもてはやされすぎている」し、「物語の力がもっぱら悪いほうに作用しているのではないか」と指摘する。私もSNSに氾濫する「エモい話」を、胡散臭(うさんくさ)い、もっと正直いえば「インプレ稼ぎご苦労さん」と思う日々にうんざりしているから、そのニュアンスは分かる。自分や他者を物語化する→そして理解する。その問題点を著者はこう指摘する。
まず、物語を通した理解の願いはときに誤解と欺瞞に陥る。自分に馴染みのある物語を使って他人を理解しようとするとき、それは抑圧をもたらす。
第二に、物語を通じて画面の向こうの誰かと情動をリンクさせたいという願いは、その人がもともと持っていた情動が、誰かの思惑通りに上書きされてしまうことや、可能だった別の仕方での情動理解の可能性を狭めてしまうことにつながる。誰かのデザインした情動に、自分の情動がチューニングし始めてしまうのだ。
第三に、物語を用いた自己像の深求は、ときに、凝り固まった自己像を作り出す。自分のアイデンティティを確立することが行きすぎると、特定のあり方の枠に自分をはめて、硬直化したアイデンティティを生きることになってしまう。
つまり自分や他者の物語化は、容易に誤解や嘘を招き、そんなこと思ってもないのに、そう思ったと思い込ませ、「自分はこういう人間なんで」という頑なな人間を作り出す危険性がある。あ~、なんか“イタい”人物像だ。
私たちがさまざまな選択肢を選ぶなかで、「ぶれたり」、失敗したり、その人らしくない行動をしたりしたこともまた、私たちの歴史的語りにおいては尊重されて然るべきだ。なぜなら、そのほうが、私たちの豊かな歴史を捉えられるはずだからだ。
物語の一貫性に縛られてはいけない。もっと人間は「いい加減」に生きているのだ。

本書の第1章は、こうした物語が本質的に持っている危険を明かしながら、どういう距離感で、どう物語と付き合えばいいのかを考えていく。その思考を深めるにあたって、歴史学者や哲学者の言葉はもちろん、くるりの「Jubilee」、ディストピアSF小説『侍女の物語』、MBTI、アニメ『ヘタリア』、けんすうの名前で知られる実業家・古川健介の著書『物語思考』など、さまざまなコンテクストを放り込んでグイグイ読ませる。

「人生はゲームである」に欠ける視点

物語を語ること、あるいは演じること──総称して物語を「上演=プレイすること」は、人生の遊び方(プレイスタイル)の一つの種類にすぎない。
もし、物語を人生の遊び方の一種として捉えるとしたら、他にもさまざまな遊び方があるはずだ。
先に「物語以上に有効な手段を思いつかない」と書いたが、物語を相対化できるような思考はないものか? 探ろうとするのが第2章以降だ。ここでは「ゲーム」「パズル」「ギャンブル」「おもちゃ」という遊びが取り上げられる。

たとえば「人生はゲームである」といった物言いをすることがある。あながち間違いではないような気もする。「親ガチャでハズレを引いた」「あのとき恋愛フラグが立った」「今日はもうHPが尽きた」とか、日々をゲーム的に見立てることは珍しくもない。しかし、そこに見落としている部分はないか? 
「人生はゲームである」というメタファーは、どうも資本主義社会における富の不平等を正当化する役割ももっているように思われる。
出たぞ、また面倒そうな提起だ。
でも、たしかに私たちが「人生はゲームである」と口にするとき、金持ちになるとか、出世するとか、資本主義というゲームフィールドのうえで、自らをゲームプレイヤーとして見立てている。でも資本主義というゲームフィールドには欠点が多い。たとえばシステム維持のために上位プレイヤーを優遇し、キャンペーンに釣られた新規プレイヤーに延々とガチャを引かせるとかね(フォートナイトのほうが、プレイヤーの声にずっと真摯だ)。著者は同時にすべての人を満足させるルールも存在しないかもしれないとして、いかにすれば多元的なプレイが同時に成立するか考えるべきだという。
「自分が勝てればそれでよい」というゲーマーとしての徳だけではなく、設計者として「ゲーム全体をよりよい方向へ調整する」という徳をも身につける必要がある。
「人生はゲームである」とイキってみせる前に、「より多くの人が満足できるゲームデザイナーになる」ために汗をかく。そういう視点を私たちは持てているだろうか。

この第2部では、パズル(および謎解き)から陰謀論や考察の流行を読み解き、ギャンブルの章では(水曜日のダウンタウンでおなじみ)芸人・岡野陽一の言葉から、ギャンブルと貨幣について踏み込んでいく。そして著者が物語に相対しうるものとして考えている「おもちゃ」遊びの章。「おもちゃって何よ?」と思うだろうが、それは是非本書を読んで(気張って理解しようとするのではなく)想像し、感じてほしい。

レビュアー

嶋津善之

関西出身、映画・漫画・小説から投資・不動産・テック系まで、なんでも対応するライター兼、編集者。座右の銘は「終わらない仕事はない」。

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