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2025.05.22

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豊かさと幸せは一致しない。幸せは「死からの距離感」で決まる──

地球上に存在する多種多様な動物のなかで、ひたすら「幸せでありたい」と切望する種は、人間だけなのでは? 一度でもそんなことを考えた人なら、思わず反射的に目を奪われてしまうタイトルだろう。それでも「ヒトだけが幸せになれない」とは、一体どういうことなのか?

生物はなぜ死ぬのか』(2021)『なぜヒトだけが老いるのか』(2023)をヒットさせた著者によるシリーズ最新作は、タイトルどおり刺激的な1冊だ。遺伝子学を専門とする生物科学研究者の視点から、種としてのヒトが感じる「幸せ」を生物学的に定義し、さらに「不幸せ」から逃れられない現代人の性質を解き明かしてみせる。文体は軽妙で読みやすく、同時に本職の研究者ならではの説得力にも満ちている。
賢い人が「幸せ」という魔法の言葉を作り出しました。お金持ちになるためでも子孫を残すためでもなく、幸せになることが、生きるモチベーションとなるのです。この言葉は、多様な価値観や事柄に使える「都合がいい言葉」です。ある人は仕事で成功することが幸せだと言い、またある人は好きな人と一緒にいることに幸せを感じ、またある人は日々平和に暮らせることが幸せだと思うかもしれません。公序良俗に反しない限りなんでもありです。ただ、都合のいい分、曖昧さを含んでいます。つまり「これって本当の幸せ?」みたいなもやっとした気持ちになることがよくあります。
我々人間はどんなことに「幸せ」を感じるのか。著者は、その条件が原始時代からヒトの遺伝子に刷り込まれてきたものであり、それが現代人の「幸せになれない」原因でもあると喝破(かっぱ)する。そして、そもそも「幸せ」とは何か? という問いに対しては、生物学の観点から「死からの距離が保てている状態」と定義してみせる。ここで思わず首をひねってしまう人もいるだろうが、読めば納得の論旨展開は、学術的好奇心のみならず、スリリングな読書の楽しみも味わわせてくれること請け合いだ。

前半では、地球における生物の誕生に始まり、およそ700万年前に出現したと言われる人類の進化の歩みがたっぷりと語られる。それからの長い進化の過程のなかで、ヒトが「何に幸せを感じるか」は築かれていったという。それはまさに有史以前からの積み重ねによるもので、たとえば中世と現代における意識や倫理観の違いとか、そういうレベルではない。厳しい自然のなかで、種が生きぬくために必要とした本能として、私たちの「幸せ」はDNAに刻まれていった……この考え方を現代の都会人に当てはめてみると、いかに自分が「ヒトの本能」から外れた生き方をしているか、改めて思い知らされる読者もいることだろう。逆に、なるべく世間に背を向けて一匹狼的に生きたいと思っている人も、実は原始時代から刷り込まれた「幸せ」を欲してやまないことに気づかされるかもしれない。
本書は現代のヒトの幸せについての本なのに、なぜ原始の時代の話ばかりするのかというと、ヒトの進化の歴史、つまり変化と選択の中で、霊長類の一種として誕生した「ヒト」は、地球の覇者である私たち「人」になりました。そのような長く強い選択圧の中で、生き残るために必要な性質は、全て遺伝子に刻まれてきました。別の言い方をすれば、脆弱な肉体しか持たないヒトの中で、生き残るために有利に働く遺伝子を持っているヒト、具体的にはコミュニティの中でうまくやれる協力的・協調的な性格や違いのわかる成長志向のベター好きなヒトが生き残ってきたのです。
先ほどの足の引っ張り合いに対する嫌悪感もそうです。インチキや不正や不道徳に対する怒りは本能的であり、これらも遺伝子に刻まれているのです。つまり正義感や道徳心の強い人が選択されて生き残ってきたのです。正義は、ヒトが生まれながらに持っている本能と言ってもいいと思います。
知性を獲得した初期のヒトは、コミュニケーション能力を発達させ、小規模なコミュニティを形成して壮大な移動生活を始める。そして、ちょっとした創造性と協調性を発揮しながら、互いに助け合うことで生きながらえてきた。よりよいもの(better)を求める性質や、集団内での不正を忌み嫌う性格も含め、そのころに我々の“基礎”は出来上がっていったのだという。

もちろん、現代社会においては原始的本能になんでもかんでも従うことが「正解」というわけではない。社会性と多様性の両立を実現できることが現代の良さだと思うので、それが許される環境であれば、生き方はどんどん変化していっていいはずだ。とはいえ、己に宿る“原始の遺伝子”を見つめなおすことは、なかなか重要なことなのではないだろうか。

そして、ヒトが「幸せになれない」性質も、実は思ったよりずっと以前から芽生えていたのだと著者は言う。その意外なきっかけが何だったのかは、実際に本書を読んで確かめてほしい。
この「遺伝子と環境の不適合」により、いろんな不都合が生じています。これが幸福感を得られにくい理由です。私たちが「幸せ」を感じるためには、私たちの遺伝子のプログラムが本来どのような状況にカスタマイズされて進化したのかということを考える必要があります。
この問題は、21世紀も4分の1が過ぎた現在まで、連綿と続いている。ゆったりと進む種としての進化のスピードと、人類の生活環境が目まぐるしく変化するスピードが噛み合っておらず、テクノロジーの発達がますますそのギャップを広げているというのだ。その結論はなかなか残酷に聞こえるかもしれないが、世界の現状を見ると、リアルな危機感として認めざるを得ない。
原始の時代に比べると、平均寿命は延びました。しかし私たちが700万年で手に入れた遺伝子、それによって作られる肉体と精神が喜んでいるかというと、そんなことはありません。自分たちが人工的に作り出すこの生活環境に適応できず「もがいている」のが現状です。
(中略)
「創造性」は、遺伝子に刻まれたヒト特有の本能と言ってもいいと思います。その結果テクノロジーはどんどん進化し、生活も変化しました。ただし、それで死からの距離感、つまり「幸せ」感は増したかというと必ずしもそうではありません。問題は、何かを作り出すところまでは本能ですが、作り出したものの使い方までは遺伝子でフォローされていないからです。繰り返しになりますが、ヒトはテクノロジーの使い方をよく知らないのです。新しいものをありがたがりますが、ユーザーとしてのヒトは全然進歩していないのです。
テクノロジーのおかげで便利になり、生きやすくなったはずの現代に、なぜこんなに「生きづらさを訴える声」が溢れているのか? 著者は自らの体験を引き合いに出しながら、ユーモアを交えつつ悲鳴を上げる。
そもそも、スマホやIT技術で、私たちはどのくらい「幸せ」になっているのか疑問です。私の場合、メールは多いし、添付書類はついてくるし、Zoomのおかげで会議の数は確実に増えました。オンライン会議を二つ同時に出ることなどはざらです。通信料やスマホ代は増えましたが、給与は変わらずです。どういうことでしょうか? 忙しさのストレスで、死からの距離は縮まっているように思えます。生物学的な「幸せ」とは真逆のことが起こっています。
コロナ禍を経て、よりスマホが「なくてはならない存在」になってしまった人類の洒落にならない状況も、本書は容赦なく指摘する。その一方、ある先住民族が守り続ける独特のライフスタイルなども例に挙げながら、人類がいまいちど現代社会で「幸せ」を実現するためのヒントも模索する。まずは「スマホの電源を切っても平気」でいられるかどうか、自分で試してみたくなるはずだ。

ところで、現代では一国のリーダーからSNSの発信者に至るまで、「罪悪感から解放された」ような人間の姿も多く見かける。ひょっとしてそれが新しい「幸せ」のかたちなのか? これが新人類の進化した姿なのか? という悲観的な考えにとらわれてしまう人もいることだろう。だが、本書はきっぱりと、人が正義を求めるのは「生物学的に間違っていない」と断言する。
生物学的には「罪悪感にさいなまれる」というところが重要で、コミュニティにとってマイナスなことをする行為(他人に迷惑をかける行為と言ってもいいと思います)に対して生理的に不快に感じるのは、進化の過程で獲得した「遺伝子に刻まれた」変更不可能な性質なのです。アンフェアなことには不快を、フェアなことには「幸せ」を感じるヒトが人類進化の過程で選択されてきました。そのような「正義の遺伝子」が生き残ってきたのです。
つまり、罪悪感を覚えないことは、遺伝子的には「人類への反逆行為」なのだとも考えられる。異常に厚かましい権力者の台頭や、当たり前のように世にはびこる不正義を嘆く人は、この本を読めばいくらか安心できるのではないだろうか。人類にもまだ希望はある――本職の研究者が言っているのだから間違いない。

レビュアー

岡本敦史

ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。

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