この本では前半の部分で「戯曲を書くにあたって、テーマを先に考えてはならない」と書いていて、読んでいた私は、「えっ」と戸惑いました。最後まで見て、テーマのない演劇を見ると、戸惑うこともあるからです。この「テーマ」のことは、ずっと気にしながら読み進んでいきました。
読み進めて、最後のほうまでいくと、俳優についての章があります。そこでは、「俳優は、私にとって実験材料にしかすぎない」「俳優は、演出家にとって将棋のコマである」といった少々乱暴な言葉が出てきます。そんなことばかり著者が吹聴するので、演劇界の一部で、評判が悪くなったこともあるそうです。
でも、それは誤解のようです。「俳優もまた、この実験に参加するにあたって、彼なりに実験の意味を考え、作業仮説をたてることも可能である。何よりも固有のコンテクストを持った俳優は、そのコンテクストを起点として、いかなる実験材料であるのかを、自ら選択することができる」ともあるからです。
前回のレビューでも出てきましたが、コンテクストというのは、 一人ひとりの言葉の使い方の違い、あるいは一つの言葉から受けるイメージの違いのこと。
コンテクストでいうと、演出家は、自分のコンテクストの通りに俳優に演じさせる職業ですが、演出家は、絶対的権力を持ってしまうだけに、『ただ怒鳴るだけで、俳優を一方的に自分のコンテクストの内側に入れようとする行為は、「演出」と呼べるものではない。優れた演出家は、彼の演劇様式によって、劇作家の仮想する言語のコンテクストと俳優の言語のコンテクストのすり合わせを行う』『様式性、論理性に欠ける演出家ほど精神論が多くなる』と、その危険性も説きます。
また、『「舞台は俳優のものだ」という類の言葉を吐く演出家ほど、逆に稽古場では俳優を抑圧し管理しようとしているという現状だった』と言います。著者は、その危険性を感じていて、そうならないためには、コンテクストをすり合わせることが重要と説きます。
著者のように、演出家の実験に参加する実験材料と共に実験をするということは、コンテクストをすり合わせながら演劇を作るということなのであり、逆に、絶対権力を持った演出家は、俳優を尊重したふりをしながら、実は演出家のコンテクストを一方的に押し付けようとしているわけです。
そこで、冒頭のテーマに戻るわけですが、テーマがあること、すなわち「伝えたいことが先に立つ演劇、あるいは事件や出来事が先に立つ演劇は、どうしても、コンテクストの擦り合わせを省略して、逆にテーマのための仮想のコンテクストを強要してしまう」ことがある。だからこその、「戯曲を書くにあたって、テーマを先に考えてはならない」だったわけです。
著者は、コンテクストの強要は、社会的な危険性すらあると説くのです。ここまで読んでわかったことは、コンテクストをすり合わせるとは、他者と対話をすることです。そして、著者にとって演劇とは、コンテクストを共有すること、他者と対話をすることの重要性を知らしめることなのです。
「戯曲は最後まで書かないといけない」と、この本には書いていますが、この本自体もまた、最後まで読まなくてはいけない本だと思いました。
レビュアー
フリーライター。愛媛と東京でのOL生活を経て、アジア系のムックの編集やラジオ「アジアン!プラス」(文化放送)のディレクター業などに携わる。現在は、日本をはじめ香港、台湾、韓国のエンターテインメント全般や、女性について執筆中。著書に『K-POPがアジアを制覇する』(原書房)、共著に「女子会2.0」(NHK出版)がある。また、また、TBS RADIO 文化系トークラジオ Lifeにも出演中。
近況:韓国映画『二十歳』についてのレビューを書いています。
2PM・ジュノ主演『二十歳』が描く、男子たちの情けない恋愛模様とその魅力
http://realsound.jp/movie/2015/12/post-521.html