「「りくつ」を「理屈」と書くのは、りくつから言えばおかしい。「理が屈する」というのは、話のすじみちがとおらなくなって行きづまることである。「りくつ」は話のすじみちが通ることだから正反対である」
言われていみればそのとおり。それぞれの文字の持っている意味からすれば筋が通らない。でもこれは戦後の漢字教育が原因だと断ずるのは早計。高島さんはさらに「りくつ」を極めていきます。「りくつ」はかつて「理窟」と書かれていました。ではこれは正しいのかというと……。
「たしかに「窟」は「あつまる所」の意で用いられることが多い」とはいうものの、それがそんなに単純な話ではありません。高島さんは「理窟」の出典を求めて行くと張憑という人物の逸話に出会います。時の皇帝が知識人、張憑の頭の良さに感服して思わず発したのが「理窟」という言葉だったそうです。
「だからこのセリフは、全体としては、「張憑はできるなあ!」「いやこいつはすごい!」といった意味」であったそうです。なので「そんなに使われる語ではなく、今の中国でははるか昔の死語」になっているそうです。
では日本ではなぜ「理窟」や「理屈」の文字が使われることになったのかというと
「日本では口頭語として広くもちいられたことばだから、江戸時代にはあて字で「理屈」と書いた例はいくつもある」そうです。
つまり話し言葉として「リクツ」というもの(概念)が先にあり、それに「理屈」や「理窟」をあてはめたということなのでしょう。
日本での漢字の世界に大変革が起きたのは幕末以降です。
「西洋の事物、観念、言葉がドッと入ってきて、それを漢字を使って訳した」からです。その先人たちの悪戦苦闘、苦心は並大抵のものではなかったといいます。たとえば「輸」の文字。これは「江戸時代にはほとんど見ることのない字であった。『史記』に漢武帝時の「均輸の法」が出てくるくらいなもの」だそうです。しかも読みは〝シュ〟でした。「明治になって、エキスポートやらトランスポートの訳語」として使われるようになったそうですが、なにしろ当時は「なにじみのない文字だから読みかたがわからない。愉快の「愉」や福沢諭吉の「諭」の類推でユと読んだ」そうです。
ここに中国語と日本の漢字の違いがあらわれています。「中国語では音に意味があるから、音をまちがえたら意味が通じない」、それに対して「日本では字が意味をになっている」のです。
おそらくそれが故に明治に多くの翻訳語を作ることができたのでしょう。作っただけではありません。古くから仏教の用語としてあった〝現在〟という言葉に新しい(西洋の)概念をそれに持たせたりもしたのです。
西洋の概念に驚き、追いつこうとした先人たちの苦闘がしのばれます。表意文字としての漢字を日本風に変えていったのが文字での文明開化だったのかもしれません。
けれど戦後に大きな危機がきました。漢字制限です。大きく書き換えられ、また使用制限をされた戦後の漢字の改革には、かつての先人たちの言葉=文字への苦闘を感じることができません。いたずらに難解な漢字を残すことがすべて正しいとは思いませんが、一つ一つの文字が担ってきた歴史というものも忘れてはいけないと思います。言葉は生き物なのですから。もっともその歴史によって本来の意味と違った使われ方もするようになってしまったのが、表意文字としての漢字の興味深いところでもあります。「成語」について高島さんが書かれた章はそのありようを教えてくれています。
自由に書かれたコラムです。音韻の変化や日本人の識字率、柿本人麻呂の歌をどう詠んだのかなどの話など、どれをとっても高島さんの博覧強記ぶりを楽しめる1冊だと思います。
レビュアー
編集者とデザイナーによる覆面書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。