「世情に流布している“あと五分あれば……”という説、つまり、被弾が五分おくれていれば攻撃隊のすべての発艦が完了し、母艦は身軽、二発や三発の命中弾があっても沈むまでにはいたらない、そのうえ発艦に成功したわが精強なる攻撃隊はみごと敵空母を沈めていたであろう(略)お話としてはその方がドラマティックであり、またそう書かれてもとくに異議を申したてる気持ちはありませんが、事実だけ書き添えておきます。あと五分間、というのは、五分で格納庫内の飛行機の爆雷兵装転換がおわるという意味で、こののち、一機ずつリフトで飛行甲板に上げて発艦位置にならべ、試運転もしなければならず、どうすくなく見つもって三十分はかかったのです」
ミッドウェー海戦について亀井さんの問いに答えてくれた空母赤城に乗船していたある大尉の手紙の中で触れられた“ミッドウェー海戦、運命の五分間”について書かれた部分です。
この闘いは昭和17年(1942年)6月5日に行われたのです。
この本は太平洋戦争の分水嶺となったミッドウェー海戦、それはどのようなものであったのか、なぜそのような作戦計画が立てられたのか等、その意図したもの(それには山本五十六の講和の意図も含めてですが)から実戦の姿までを生き残ったさまざま人たちとのインタビュー取材を中心にして描かれた大作です。
取材する人は、将官、佐官から下士官、兵卒まで多岐にわたり、またそこで語られた言葉には当事者でしか感じ取れないものに満ちあふれています。将官の間での山本五十六評では、むしろ軍政家向きではなかったかというような声を聞き出し、あるいは“敗軍の将、兵を語らず”の言葉通りに戦後を生きたように思える将官の姿を追う……。それでも、それらの将官たち、たとえば南雲忠一、山口多聞、草鹿龍之介たちへの人物評はとても興味深いものでした。
戦闘の叙述の中にもはさみ込まれた生存者のインタビュー、その言葉が醸し出すリアリティーはフィクションでは味わえないものです。大きな決断を強いられる司令部、その指令がどのように現場で実現されたのか、あるいはされなかったのか、誤解も誤報もあり、さらに希望的観測を求めてしまう人間のさが、それらすべての人間の行為の総合として描き出されています。
「戦場で、一兵卒が、内心はどうであれ、「この戦争はまちがっている」などとさけぶなどというような、そんなばかな話はないので、すべての人間がそれほどかしこくて真に勇気があるものなら、最初から戦争など起こりはしない」
こういうものを手放さないことがとても大切なことだと思います。俯瞰的な視点ではものがしてしまうリアリティがここにはあると思います。
そして幽明境を異にした将兵たち。
この本は通常の戦記もので陥りがちな、物語(=劇場)風な記述にはまることなく、また英雄譚になることもなく描かれた希有なものではないかと思います。それはひとえに亀井さんの方法と姿勢によるものです。
この本でインタビューされた人々も鬼籍に入った人が多いと思います。その意味では、このような本はもう誰も書くことができません。
「戦争というものが、どれほど悲惨で愚かしいものであるかは、だれよりも、実際に戦って生き残った人たちが一番よく知っているはずである。その彼らが、安易に懺悔のことばを口にしないのは、戦後まで生きのびるために知りえたモラルで、自分が生きてきた過去を裁断してはならないと心中深くきめているためであろう。かれらが各自その禁をもうけなければ、終戦後の生活を知らずに死んだ戦友を冒涜することにもなるからだろう」
ミッドウェー海戦から生還した人々にはまださまざまな戦いが待っていました。そしておとずれた敗戦。生きてその日をむかえた人々にとって本当に戦争は終わったのでしょうか。政治の延長としての戦争は終わったのかもしれません。けれどその人たちがその中で生きてきた戦争というものは終わっていなかった……そんなことを考えさせてくれるものでした。
レビュアー
編集者とデザイナーによる覆面書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。