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2015.01.16

レビュー

日本近現代史を「はだか」にしていく試みが浮かび上がらせた日本の姿

裸だから、いろいろな〈意味〉を着せたがるということなのでしょうか……。この本はとても挑発的な日本文化史だと思います。本が挑発的であることはある種の美点だと思います。では挑発されているものはなんなのでしょう……。池川さんは七体のヌードを取り上げ、そこに現れる「『日本』をまとったヌード」という系譜を追い「日本近現代史を「はだか」にして」いきます。私たちが包み隠してきたものを明らかにしていくのです。

最初に「ヌード」に着せられた衣装(意匠)は文明開化というものでした。ヨーロッパに追いつこうという日本帝国の方針にそって輸入されたのが西洋の「裸体画(彫刻も含んでいます)」というものでした。この裸体画は女性だけというものではありません。均整のとれた男性のものも含まれています。この第1章の主人公は長沼智恵子(後の高村智恵子、『智恵子抄』のヒロイン」です。彼女の書いた男性の裸体デッサンをめぐって考察されています。実際にはすこしもリアルではないの彼女の書いた男性ヌードデッサン画がなぜ「おかしいほどリアルである」と称されたのか。そこには裸体に対する国家と画家との抗争がありました。とりわけ「裸体群像表現による歴史画」をめぐって国家の介入が取り上げられています。建国神話に題をとった歴史画が不敬の批判をあび「モデルの身体を眺める視線に、ある種の遠慮がもたらされたとしても不思議ではない」とし、その結果、「股間は、裸体画の取り締まりと歴史画という目的の機能不全によって、「しっかり描く」から「ぼかして描く」ものに変わったのだ」と。そして周囲の目標喪失、理念欠如による混乱の中で浮かび上がったのが智恵子のリアルなデッサン画だと分析しています。

この章での理念(喪失)とそれに対する創作者たちの混乱(?)というものはこの本全体を通じてうかがえるものではないかと思います。この悲劇を体現したのが竹久夢二や高村光太郎(高村智恵子とともに)だったのではないでしょうか。流行作家として頂点を極めた竹久夢二は、国民の嗜好の変化と国策に追われその地位を失いその焦りからかヌードというものを取り上げるようになりました。
高村光太郎は太平洋戦争中の戦争詩への反省から「「自己流謫」と称する田舎暮らし」を続けます。けれど光太郎には戦中から一貫して持ち続けた理念がありました。それは「女性に対して、超自然的な浄化能力を求めずにおれない」といったものでした。この意味では光太郎は戦中から少しも変わらぬ理念を持ち続けていたのかもしれません。けれどそれは理念によって現実(戦争)を回避したということにもなります。光太郎の世界は現実と関わること無く自転するものだったようにも思えるのです。光太郎の智恵子のヌード彫刻、乙女の像はその到達点かもしれません。あるいは池川さんが書いているように「智恵子と智恵子を向かい合わせることによって、光太郎が智恵子の視線を封印し、そのことによってようやく、四十年間に及ぶ「遠い道程」の呪縛から逃れた」のかもしれません。そうであったとしても、光太郎の前に残っていたのは空虚だったような気がしてなりません。

ヌードは一方では国策としても、そのシンボル的な役割を果たしてきました。外国観光客誘致のためのフィルムに残された裸体、それは太平洋戦争開始の直前、昭和16年(!)に制作されたものでした。日本を紹介するものとして製作されたこの『日本の女性』というフィルムは、池川さんによれば、日本で最初にはっきりとしたヌードが登場したものだそうです。日本紹介として作られた映画は、また次第にその相貌を変えていきます。ナチス的な健康志向がフィルム内に押し寄せるようになったのです。この映画をめぐる歴史的考察はこの本の中でもとても興味深いものだと思います。ヌードに込められた西洋諸国(とりわけアメリカ)との文化闘争といったものがうかがえます。

ヌードは満洲国建国後は、また新しい意匠(衣装)をまとってその姿をあらわします。それは満洲移民を促進する国策として登場します。そのときヌードは乳房という形でシンボル化されました。開拓民家族を象徴するものとして、それは同時に「民族協和」を意味するものでもあったのですが、そのプロパガンダ映画の中にあらわれます。監督は日本最初の女性監督だった板根田鶴子監督による『開拓の花嫁』(実にストレートな題名です)に登場します。国策としてのヌードを取り上げた頂点がこの映画なのではないでしょうか。

ヌードは戦後においてもさまざまな意匠を強いられます。反発するにせよ、迎合するにせよ国策と対抗したヌードは70年代にひとまずは終焉しました。その嚆矢がパルコで製作されたヌードポスター『裸を見るな。裸になれ。』でした。この石岡瑛子さんの手によるポスターは初めてヌードがなんの衣装(意匠)もまとわない形で私たちの前に提示されたものではないかと思います。それがたとえ「資本の論理」であったとしても、国策というポリティクスから離れていく第一歩であることに間違いはないと思います。

池川さんの「日本近現代史を「はだか」にして」いく試みが挑発したものは、私たちの先入観と国家へと絡め取られがちな私たちの感性なのかもしれません。意匠としてではないヌードが秘めている可能性はまだまだ創作者の中に眠っているのではないでしょうか。少なくとも「愛国」という観念(それが観光誘致であっても)に回収されることのないものとしてあることを手放さないようにする必要があると思います。(この本の章立てがミステリー小説のパロディになっていることのおもしろさ、コラムの豊富さもこの本の特長になっていることも忘れずに付け加えておきます)

レビュアー

野中幸宏

編集者とデザイナーによる覆面書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。

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