私たちの体はさまざまな観念や規範に縛られ、体が本来持っている自由さを失っているのではないか。本来、知性に結びつくものだったはずの、この体はどこへいってしまったのか……。尹さんは武術等の体験を通して、いかにその体を取り戻すかという試みを追っていきます。
尹さんは私たちが小さいときに「正しい姿勢」という名の下に、いかに体を見失ってきたかを詳細にわたって解き明かしています。「きちんと、正しく」という緊張を強いられてきたかを……。この緊張とは体に意識が覆い被さり、意識の下位として体を位置付けたことをあらわしています。
「体感を否定した上で、慣例や常識を持ち出して正しさを定義すると、頭のほうは「そういうものか」と納得してしまう」
そこで起きることは実感の喪失であり、頭で構成された〈現実〉というものを強制されることなのです。尹さんはこれを東日本大震災の中で思い知らされたといっています。震災以後の「刺々しい言葉が鋭さであり、単線的で余裕のない言葉が論理的だ、というような取り違え」の中で「頭を使うとは、私の体で考えるということだ。(略)感じたことは常に現実の断片でしかないと知りつつ、その意味を問うていくことだろう」と……。
ではどのように体感というものを私たちは知ることができるのでしょうか。尹さんはこんな実験をしてみます。
「紙に穴を二つあけて、自分の体が視界に入ってこないようなマスクをつくってみた」
魚の視点(!)を体験しようと考えたそうです。その結果はというと
「日常の中で、私たちは「自分がいま何かを見ている」と意識することはほとんどない。(略)しかし、マスクをつけると、見るという行為の「人工的な部分」が際立って感じられた」
「ふたつめの発見は、こうして自分の体が映り込まないようにすると、視覚以外の感覚が鋭敏になるということだ」
これはこの後に続くマスクをつけて壁に向かって歩いたときにはっきりします。
「マスクをつけると、壁は空間を構成するただの一要素になった。もちろん、どんどん前に進めば壁にぶつかるのは変わらない。物理的にすり抜けることもできない。しかし、接近しても圧迫感が生まれない」
尹さんはこの体験をこう考えました。
「前方の壁だけに気を取られず、頭上、足元、横、後ろに自由な空間が広がっていることを体感でできた。(略)私たちは、何かをすれば、何かを知れば自信がつくとおもっているけれど、それはかなり見当違いなのかもしれない。新たに何かを獲得するべく努力するよりも、身につけてしまった思い込みを外しさえすればいいのではないか」
コロンブスの卵です。私たちの体はどこへもいっていないのです。今ここにあるのですそこから始めればいいのです。
「私たちが生きていく上で必要なのは、正しい行いでも、正確な知識の獲得に血道をあげることでもない。ただ歩みを進め、身を乗り出すこと」
そしてさらに
「自由とは何であるか。概念を弄ぶのではなく、体で考える」
尹さんの力強い宣言がここにはあります。といっても、そんなに簡単なことではないでしょう。尹さんの武術家としての裏付けがそこにはあるからです。ここには「構えあって構えなし」「初めの少しのゆがみが、あとには大きくゆがむものである」という『五輪書』(宮本武蔵)の声が聞こえてくるようです。
レビュアー
編集者とデザイナーによる覆面書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。