「希望によって、人間がささえられるのではない(おそらく希望というものはこの地上には存在しないだろう)。希望を求めるその姿勢だけが、おそらく人間をさせているのだ」
石原吉郎さんの言葉はいつも私たちに姿勢(身体だけでなくもちろん精神も含む人間総体としての)をたださせるものがあります。それは、厳しさとか激しさとか怜悧とかというものではないと思います。
「ことばがさいげんもなく拡散し、かき消されて行くまっただなかで、私たちがなおことばをもちつづけようと思うなら、もはや沈黙によるしかない。そして、そのようにして自分の内部へささえたことばは、一人の自己を確認するためのことばであり、ひとりの対者、一人の敵を確認するためのことばでなければならないと思います」
このような〈ことば観〉を持った石原さんの詩……たとえば、
「そこにあるものは
そこにそうして
あるのものだ
見ろ
手がある
足がある
うすわらいさえしている
見たものは
見たといえ」
「詩がおれを書きすてる日が
かならずある」
「しずかな肩には
声だけがならぶのでない
声よりも近く
敵がならぶのだ」
これらの言葉は直接に私たちに響いてきます。石原さんが体験してきた〈シベリア抑留〉体験。ポツダム宣言に反するそれは、かつてロシアのエリツィン元大統領が1993年10月に訪日した際、「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」と表明したものでした。しかも石原さんは〈ソビエト国家への反逆〉という罪状で起訴され重労働25年の判決を受けたのです。中立条約を一方的に破棄し参戦した旧ソ連への〈反逆〉という罪、これは不条理などというものではありません。ただただグロテスクというしかいいようがない事態です。
「ロシア共和国刑法は、ソ連邦の一構成共和国であるロシア共和国の刑法が、ソ連全土に拡張適用されたものであるが、それはいうまでもなく領土内の犯罪にかぎられ、領土外での、しかもソ連と交戦状態にはいる以前の私たちの行動には適用できないはずである」
「昭和二十八年十二月二日、おくれて私は軍務を解かれた」
その石原さんに帰国後待っていたものは決して暖かい同胞の出迎えではなかったようです。
「ひとつのことだけ、僕には単純にはっきりしている。現在の苦悩がどんなものであるにせよ、苦悩に負けてはならないということだ。負けてはならない」
「耐えるとは、〈なにかあるもの〉に耐えることではない。〈なにもないこと〉に耐えることだ」
こうした中で紡ぎ出された言葉の数々は唯一無二のものとしてこの本の中にあります。「ことばについて、ことばで語れば語るほど、ことばそのものが脱落して行くという状態を、私たちはもう経験しすぎるほど経験しています。私たちは、いわばこういうかたちで、やがてはことばの失速状態、失語におちいって行くわけですが、さらに、語られる問題がことばそのものであり、それを語る手段がことばであるという関係によって、加速的に生きづまらないわけには行きません」
「いまは、人間の声はどこへもとどかない時代です。自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりきこえる時代です。(略)とどくまえに、はやくも拡散している。民主主義は、おそらく私たちのことばを無限に拡散して行くだろうと思います。腐食するという過程をさえ、それはまちきれない。たとえば怨念というすさまじいことばさえ、あすは風俗として拡散される運命にあります。ことばが徐々にでも、腐食して行くなら、まだしも救いがある。そこには、変質して行くにもせよ、なお持続する過程があるからです。持続するものには、なおおのれの意志を託することができると、私は考えます」
というように……。
「膝を組み代えるだけで
ただそれだけで
一変する思考がある
世界が変わるとは言わぬにしても
すくなくともそれに
近いことが起る」
この一節に私たちは希望も絶望も感じることはないと思います。石原さんの人間を見つめる眼の存在を感じ、それを私たちが忘れずにいることが必要なのではないかと思います。
「詩には最小限度ひとすじの呼びかけがあるからです。ひとすじの呼びかけに自分自身のすべての望みを託せると思ったからです」
石原さんの言葉は歴史(時間)に埋もれるようなものではないと強く感じさせる本でした。
レビュアー
編集者とデザイナーによる覆面書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。