きっぷがいい人ということになぞらえると、著者の高島さんはきっぷのいい文章を書く人だと言えるのではないかと思います。たとえば
『この人民裁判というのを「人民による裁判」だと思っている人があるが、それはちがう。「人民の前での裁判」なのである。初めから死刑と決っている者を人々の前に引きずり出して悪事を並べ立て、公開処刑するのが「人民裁判」なのである』
というようにはっきりと言い切るようなところにそれが感じられます。
高島さんは盗賊を『何を主張し、何を目的としているかにはかかわりなく、とにかく武装してみずからの要求を通そうとする集団は、すべて「盗賊」と呼ばれる』と定義し、それにふさわしい5人の男を描いた列伝がこの本です。ここで取り上げられた、陳勝・劉邦から始まり毛沢東に終わる大盗賊の姿の中に著者は中国特有の何かを見出しているようです。もちろん「盗賊」は単なる悪名ではありません。正義か悪かという価値は見る者の立場によるもので、「盗賊」とは「官」の側から見た呼称でしかないからです。盗賊出身であっても皇帝になったというより、盗賊の資質があったからこそ皇帝になれたのだという先人の姿を高島さんは丁寧に追っています。
そういう高島さんの盗賊観によれば毛沢東は極めつけの盗賊皇帝だということになります。だから毛沢東が権力を掌握し(著者によれば)帝位につけたのだというのです。一見奇をてらったような主張に思えるかもしれませんが、先人(先盗賊?)のあり方を参照すると、毛沢東の政策(失政を含めて)や発想が極めて中国の伝統にのっとったものであることに納得してしまいます。
毛沢東は『西洋的教養とは縁のない、きっすいの伝統的文化人だった』のです。さらに中国共産党のあり方も、かつて盗賊のまわりにいて親分を支えた知識人たちと同型のあり方だとまでいっています。詳しくは本書を読んでいただきたいですが、毛沢東の井岡山の話や長征など、さらに後継者(跡目)争いまでもが、かつての盗賊たちや水滸伝の物語で描かれた豪傑たちの行動とそっくりなところが多いのに驚かされます。それが中国の特徴だと著者は言っているように感じてしまうのです。
これからも盗賊皇帝は中国に現れるのでしょうか。それはわかりません。高島さんは毛沢東が最後の盗賊皇帝だと言っているけれども…。ともあれきっぷのいい文章を味わえることは読書の大きな楽しみのひとつであることは間違いないのです。
レビュアー
編集者とデザイナーによる覆面書籍レビュー・ユニット。日々喫茶店で珈琲啜りながら、読んだ本の話をしています。