中世から近世にかけて、ヨーロッパでは様々な文化・文明が花開いた。しかし、同時に各地では異端審問や魔女狩りの名において、凄惨な拷問や処刑が日常的におこなわれていた。その知られざる実態と歴史を掘り下げ、現代に生きる我々に当時の苛烈な世界を伝えてくれるのが本書である。2007年に新潮選書として出版されたオリジナル版に、増補と新たな文庫版あとがきを加えた待望の復刊だ。
タイトルどおりのセンセーショナルな内容ではあるが、本書はその文化的・思想的背景、当時の資料記録までつぶさに拾い上げた、立派な学術書でもある。血なまぐさい慣習が「司法の一環」として定着し、狂気にも似た残酷さをエスカレートさせていった背景には、多くの面で現代とは異なる時代精神・社会環境があった。キリスト教社会の宗教観に基づく厳格なモラルを基盤に、特権階級と下層階級のヒエラルキー、過剰なユダヤ人差別、キリスト教以外の民間信仰や魔女幻想など、さまざまな周辺情報がこと細かに示されていく。
多面的視点をつらぬく本書の姿勢は、たとえばドイツで魔女狩りが流行した理由に「小氷河期の到来」という自然現象を挙げる分析からも明白である。
魔女研究の第一人者ベーリンガーは近年、十六―十七世紀にドイツの農村部に魔女狩りが頻発した理由として、その前後を含めた十五―十八世紀がヨーロッパの小氷河期と重なっていることを挙げている。逆に中世の十二―十三世紀までは温暖化時代であり、人口が増加傾向にあった。そのためヨーロッパの北方を占めていたドイツでは、開墾や植民が進んでいた。ところが小氷河期の時代になると、その反作用によって中部や北部の農地は天候に左右されるようになった。とくに寒冷期になると、ここは直接、天候不順の影響を受けやすく、農作物は被害をこうむり、損害が目立った。この利害関係が魔女幻想と結びつき、スケープゴートをつくりだしたといえよう。
もちろん背景だけでなく、拷問や処刑そのものもディテール豊かに描写される。現存する裁判記録や文献、研究書などをもとに伝えられる光景は、なんとも禍々(まがまが)しく生々しい。
たとえば、悪名高きスペインの異端審問の犠牲になった、エルヴィラ・デル・カンポというユダヤ人女性の判例。彼女は同化政策によってキリスト教に改宗したが、「豚肉を食べない」「土曜日を聖なるサバトの日(安息日)にしていた」などといった理由で、異教徒として密告された。容疑を否認した彼女は拷問室に入れられ、腕に紐を巻いてきつく絞め上げる「紐絞め」という拷問を加えられた(激痛と圧迫感、血流の阻害などで相手を苦しめる、地味だが効果的な拷問だという)。
効果が薄いと判断した刑吏は、さらに紐を巻いてきつく絞めながら尋問した。「わたしを釈放してください。お役人様、何をいったらいいのか、いってください。あわれな罪人にお慈悲を!」。さらにかれは紐を引っ張る。「わたしはブタ肉を食べませんでした。食べると病気になるので、そうしたのです。放してください。真実をいおうとしているのですから」。
無実を主張し続けたエルヴィラは「ボック」と呼ばれる三角形の木馬に座らされ、縛りつけられた状態で自白を強要された(ボックに座った者は15分ともたずに失神するという)。結局、彼女は自分がユダヤ教徒であると自白したが、その後に彼女がどうなったのか、記録は残っていない。
本書には拷問の多彩な種類と、それに使用された拷問器具の図版も多数掲載されており、かなりのインパクトである。これらの拷問の内容や実施条件は、神聖ローマ帝国の法律が改定されるたびに、より細かくマニュアル化されていったという。下の図版は、1751年の「バイエルン法」に基づく各種拷問の図。
そして下の2点は、ハプスブルク家の女帝マリア・テレージアによる「テレージア法」(1768年)で明示された「親指詰め」公式拷問器具と、「紐絞め」拷問のメソッドである。
さて、ヨーロッパが生んだ拷問器具と言えば、特に有名なのが「鉄の処女」。この本のタイトルを聞いて、その凶悪かつフォトジェニックな形状が真っ先に頭に浮かんだ人も少なくないだろう。映画『スリーピー・ホロウ』(1999)など数多くのフィクション作品に登場し、ヘヴィメタルバンド「アイアン・メイデン」のバンド名の由来としても知られているが、本書では驚きの事実が明かされる。ビーレフェルト大学のW・シルト教授による長年の調査から導き出された結論は、この「拷問器具のマスターピース」的存在に暗いロマンを抱いている人には、ショッキングな内容かもしれない。
また、当時の魔女裁判における尋問もマニュアル化されており、その一部も本書で読むことができる。到底まともな会話が成立するとは思えない内容で、おそらく無数の冤罪が生まれたことは想像に難くない。
第二十四―第四十四項目
どれくらい悪徳や魔術とのかかわりがあるのか。悪魔はどのような姿であらわれたのか。悪魔との肉体関係の有無、性的快楽はあったか。何度悪魔と関係をもったのか。人間、家畜、果実に害を与えることを約束したのか。悪魔の洗礼を受けたか否か、悪魔とその後の交流があるか。悪魔の仲間と会った場所。どのようにそこへいったのか、自分ひとりでか、悪魔といっしょにか。
現在の目から見れば、その「裁判」は滑稽な茶番劇のようでもあり、異分子を都合よく排除するための狡猾かつ残忍な悪法とも捉えられる。だが、一部の確信犯的な不届き者を除いて、拷問する側も拷問される側も、いたって真剣に「悪魔との戦い」「神の救済」としてそれをおこなっていた面もあった。それが当時のヨーロッパ・キリスト教社会の倫理観であり、人々の共通認識だったことも、本書ではハッキリと示される。
皮肉にも、その信心深さは人間の「悪魔のごとき行い」をエスカレートさせ、忌まわしい歴史をかの地に刻みつけた。その後のヨーロッパにおける人権意識の目覚め、民主社会の誕生も、その反動から発生したのだとしたらやはり皮肉であり、必然でもあったと言えるかもしれない。
第五章「裁判と処刑の実態」は、さらに細かなディテールに満ちていて興味深い。火刑や斬首、絞首刑といった処刑法の詳細な実施手順など、思わず「へえー」と声が出てしまうような内容が満載である。暗い密室性を伴う拷問部屋での出来事に比べて、大勢の観衆が立ち会う裁判や公開処刑は、明確な記録や目撃証言が残りやすかったのだろうか。人間のみならず、動物や虫を「被告」として行われた裁判記録などにも度肝を抜かれる。
各種刑罰の紹介のなかでは「車裂きの刑」が印象に残る。下の図版がその様子だが、これは男性のみに適用された「最も恥辱に満ちた不名誉な刑」だったそうだ。確かにこんな死に方はしたくない。
よく中世ヨーロッパを舞台にした映画などで「車輪に打ち付けられて白骨化した罪人の死骸」の描写が出てくるが、正直どういう刑罰なのか見当がつかなかった。本書によると、罪人はまず裸で地面に仰向けに寝かされ、手足を伸ばして縛られるという。そこに重い車輪を持った刑吏がやってきて、判決によって定められた数だけ、罪人の手足の骨を下から上へと砕いていく。その後、罪人は縛られたまま車輪に載せられ、高いところに掲げられて晒(さら)し物にされる。
死刑囚はそれでも死なずに、車輪の上で数時間瀕死の状態で生きていることもあった。この惨めな状態のまま、人目に付くように刑場でさらされ、カラスなどに啄(つい)ば まれるまま放置される。そのような有様から想像がつくように、車裂きは、死の苦しみがもっとも長く続く苛酷な刑とみなされた。
車輪は民間信仰では太陽のシンボルでもあり、車裂きのさらし刑は太陽神への供犠、つまり太陽信仰の継承という面も備えていたという。こういったディテールも、本書を読んで初めて知った収穫のひとつである。
処刑人とその助手にあてがわれた労働手当の料金表が掲載されているのもすごい。「スペインのブーツをあてがう」「びんたを食らわす」「鼻や耳をそぐ」「車裂きの刑に処す」といった項目ごとに料金が設定されていて、恐怖を振りまく処刑人が実はいちいち金額を計算しながら仕事していた姿を想像すると笑ってしまう。また、処刑人の「副業」についての記述も、当時の意外な「信仰」と結びついていて驚かされる。
処刑人は通常、副業を行い、さらなる収入を得ていた。たとえば斬首の際に、傷口から大量の血が流出するが、見物している者は、先を争ってその血を求めた。処刑人は容器で血をすくい、さらには布切れにそれを浸し、お金を取って販売した。
「血」にはキリスト教社会において特別な価値があり、「公開処刑」には罪人が死後にキリスト教社会に復帰する儀礼としての意味合いも含まれていた。これもまた現代の我々からは計り知れないディテールである。
処刑そのものは、一面では宗教的・政治的な権力による見せしめであったが、たんにそれだけではなく、さらに処刑された者は犠牲の生贄になぞらえられる。すなわち当局は、「最後の晩餐」を終えたスケープゴートを広場に引きだし、血しぶきや人間の断末魔の姿を民衆に呈示したが、この処刑儀礼は、汚された神の名誉や侵害された平和を修復し、社会の秩序を回復することを意味した。したがって、先にも述べたように、公開処刑の「犠牲の血」は、たとえ極悪人の血であっても霊力があるものとして、病気の特効薬とみなされたのである。
人々は神を信じ、魔女を信じ、悪魔を本気で恐れた。そんな時代だからこそ、権力者は「神の威光」を背負い、悪魔祓いと公開処刑によって、己の絶対的な力を民に誇示することができた。だが、すべての人間がそのまやかしに粛々と従ったわけではない。
17世紀半ば、カトリック・イエズス会の司祭シュペーは、匿名で『裁判官への警告』を出版する。数々の拷問や処刑に立ち会った彼は、「本物の魔女など存在せず、拷問や処刑を繰り返す裁判官や刑吏のほうこそ悪魔なのではないか」という考えに至り、自らも異端扱いされる危険を顧みず、告発を決意する。シュペーの言葉は、著者自身の思いでもあるだろう。
かれはいう。「わたしはこの世で行われてきた蛮行を見た。すなわち抵抗することもできない無実の者の涙や、あらゆる助けを奪われた者を見たのである」と。この悲劇を根絶するために、シュペーは「それゆえ拷問は完全に廃止されねばならないし、もはや行使されてはならない。あるいは少なくとも、一般に拷問を危険な装置にしている要因をそれぞれ排除するか、ほかのものに変えてしまわねばならないのだ」とはっきり主張する。
それは決して過去の遺物ではない。本書で描写される悪質な拷問の数々に、アブグレイブ刑務所や、イラン女性刑務所などをイメージしてしまう人も少なくないだろう。人類はたやすく「大義の名のもとに」同じような蛮行を繰り返してしまう。そんな世界の到来と戦わなければならないことも意識させる、未来を見据える一冊でもある。
レビュアー
ライター、ときどき編集。1980年東京都生まれ。雑誌や書籍のほか、映画のパンフレット、映像ソフトのブックレットなどにも多数参加。電車とバスが好き。